鮫夢2

□赤い靴_______
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「この分からず屋!!」


 捨て台詞は潔い去り際に。そんな分かりきったことも忘れたのか。天音は携帯をしまって上着を羽織るだけの帰り支度さえもたついて、もう折角捨てた台詞が台無しだ。漸く扉まで行き着いてもまだ未練を見せる彼女は、肩越しに振り向いてみせた。既に「分からず屋!!」と吐き捨てた時の剣幕は欠片もなくて、ただ虚ろとしか言い表せない。虚ろだと、思うことにした。


 俺は彼女を引き止めるべきだったのだろうか。例えば彼女が泣きだした時とか、携帯を取り落した時にでも、何か言うべきだったのだろうか。俺は表情も変えずにじっと彼女を見ることしかしなかった。だからバタンバタンと大きな音を立てて部屋を飛び出した彼女を遮るものは何もなかったし何もない。遠ざかっていく靴音は叩き付けるようでヒールのまま走って行ったらしい。そういえばあの靴は、いつぞや彼女が酷い靴擦れを作ってからもう二度履かないと言っていた靴ではなかったか。かっこよく履けないハイヒールなんて意味がないからもう箱にしまっちゃったと話していたのは間違いなくあの赤い靴だった筈だ。いつぞや、とぼかしたが靴の話題は彼女と初めてまともに交わした話題だった。


 どうして今更、あの靴を持ち出したのか。


「分からず屋、なぁ」


 今更気づいたのかよ、遅すぎるだろぉ。靴音が聞こえなくなって暫くたってから呟いた声は存外しっかりしていた。本当は上手に縋って見せることもできたのかもしれない。どれだけ本気で縋ればよかったのだろうか。無様に縋る自分を想像して、想像できなくて止めた。


 コートを羽織る。出かけてしまおう。この部屋にいた所で、どうせ考えるのは下らないことばかりだ。例えどんなに下らないことでも、外で考えたことならばその場所ごと忘れて、二度と思い出さずに済む。

出来ることなら、しばらくこの部屋には帰りたくない。





 そもそも他人を理解出来るなんて、幻想に過ぎないのだ。そんなことが起こりうるのは一人の作者が全ての登場人物の心情を把握できるフィクションの中だけだ。ああそうだ、俺は彼女のことなんか知らない。例え恋人だろうと、一年間同じ部屋で暮らしていようと。


 けれど分からない、分からない、と言いながら、当てもなく彷徨っていた目抜き通りで彼女と出くわしてしまう俺は、分からないなりに何か彼女と通じるところがあるのかもしれない。


看板も見ずに咄嗟に手近な店に入ってしまったのは、どんな顔で会えばいいか分からなかったからだ。


「一名様ですか?」


 ウェイトレスに尋ねられる。足を踏み入れたのはマスターとウェイトレスが一人しかいないような小ぢんまりとした喫茶店だった。ウェイトレスのエプロンの裾には店名と思しき文字が縫い込まれている。読み取って、余りのタイミングの良さに思わず苦笑いする。


「…あ“ぁ、俺だけだぁ」


 怪訝な顔をしているウェイトレスに告げると、大きな窓のすぐそば、通りを見渡せる席に案内される。ガラス越しに天音が見えた。気づかれたかもしれないと思っていたが、通りの向こう側でショーウィンドーを見つめている天音はそんな素振りを一切見せない。適当にコーヒーを注文しながら眺めているうちに、彼女は店へと入っていった。


 二枚のガラスを隔てて、店内を歩き回る彼女をぼんやりと眺める。彼女があちらこちらと見て回り、手に取って見比べていたのは靴だった。華奢なフォルムのハイヒールが次から次へと天音の手と棚を行き来する。時折試し履きしては、また物色に戻る。本気で買うつもりなのだろうか、たった3センチのヒールで音を上げる奴が、7センチ以上もあるヒールを?


 馬鹿馬鹿しい。天音の気配が残る部屋が嫌で街へ出てきたのに、どうしてその天音を見なくてはならないのだ。第一自分がこんな風にこそこそと逃げるような真似をしているのも、よくよく考えれば腹が立つ。


 場所を変えよう。立ち上がりかけた所に頼んでおいたコーヒーが届いて、結局腰を上げることすら出来ない。苛立ちが募る。さっさと飲んでしまおう。


 いや、そもそもこんなことを考えていることすら馬鹿馬鹿しい。どうして俺が逃げなくてはならない?確かに俺が外に出たのもこの喫茶店に入ってきたのも天音が関わっている。これ以上影響されるのは、何か負けているような気がして癪に障る。ならば焦ってここを出るべきではない。


 腰を落ち着け直す。今までの俺は、認めたくはないが平静を失っていたに違いない。過去の動揺を認めるということは、普段の自分、それから現在の自分は冷静なのだと暗示をかけることに等しい。何となく余裕も出てきて、別段空腹でもなかったが追加でサンドイッチを注文した。余裕をアピール。一体、誰に?結局動揺している。


 間もなく注文したサンドイッチが運ばれてきた。両手で持つのに丁度良いサイズのサンドイッチが二切れ。分厚いチキンやら卵やらトマトやらがパンの倍の厚みで挟み込まれ、レタスは端が大きくはみ出している。


 誰がこんなもん食うんだ。食えない量ではないが、軽食というには重すぎる。一つ手に取って齧ってみる。味も文句はない。ただ、重い。


 ふと思いついて、窓ガラスから外を眺める。斜向かい店では天音がまだ靴を物色している。その手の中には彼女が身に着けているのとよく似た色の靴。


 もう一つ思いついて、小さく笑う。今日は冴えている。


 携帯を取り出してボタンを二度プッシュ。二枚ガラスを隔てた向こうで天音が携帯を取り出す。コールが鳴りやむのと同時に尋ねる。話すタイミングなんか与えてやらない。


「う“ぉおい、今どこだぁ」
「…」
「まぁ、どこだっていい。腹減ってるかぁ?」
「…はぁ?」
「『赤い靴』」
「…え?」


 すごい勢いで顔を上げた天音がきょろきょろと周りを見回す。彼女に気付かれてしまう前に、何も知らないように言ってのける。


「『赤い靴』。今俺がいる喫茶店の名前だぁ。」


 プツン!軽い音とともに通話を切った。無性に笑いたくなった。


 さあ、このとびきりのジョークに彼女は気が付くだろうか。気が付かなければいいと思う。俺が彼女を理解できないように、彼女も俺のことを理解できなければいい。そうでなくちゃフェアじゃない。


 フェア、フェアだってよ!俺はいつからそんなものを求めるようになったのか。いつだって、フェアを求めるのは俺じゃなくて彼女の方だった。彼女が部屋を飛び出したのだって、俺ばかりに任務が与えられるのがアンフェアだと彼女が言い張ったことが発端だった。アンフェアと言われたって任務を決めているのは俺ではないし、大体体力も戦力もある俺に多くの任務が割り当てられるのは当然なのだ。そんなこと彼女だって分かっているはずなのに、「じゃあ任務のないときはスクアーロの任務についていく」などと言い出した。休みの日は休めと幾ら諭しても一歩も引かないものだから段々と苛立って語気も荒くなって言い争いになった。そうして彼女は部屋を飛び出した。


 俺は彼女を理解できない。けれど、どうやら俺たちは似ているらしい。もしくは、少しずつ似てきている。だとするならば、全て筋が通りはしないか?俺が天音として認識した人間は一瞬の後には、その認識より俺の近くにいる。認識はブレる。不快なジャギーはきっと、そのブレのせいなのだろう。同じように俺も、認めたくはないが、少しずつ彼女の影響を受けて、変化している。彼女もまた俺を、捉え切れない。





 カランカラン!穏やかな音が鳴る筈のカウベルをけたたましく揺らして扉が開く。飛び込んでくるのなんて、天音しかいない。


「よぉ、随分と早いじゃねぇかぁ」


 片手を上げて声を掛けても天音は何も返さない。むっすりとしたままカツンカツンと歩み寄ってくる。俺の目の前で腰に手を当て、吐き捨てる。


「どう?待たされる気分って。」
「悪くねぇ」


 見下ろす天音と無言のまま、見つめあうように睨み合う。不意に天音の表情が和らぐ。何をするのかと思えば俺の向かいの席に座って、声を零して笑い始めた。


「…ははは、やっぱり私たち一生涯分かり合えそうにないわ!」
「そうだなぁ!それだけは同意してやるぜぇ!」


 ニヒルに笑った天音はスッと足を組んで、手を上げてウェイトレスを呼ぶ。その足先を飾るのはやっぱり今日彼女が履いていった赤い靴のままで、随分綺麗に履きこなせる様になったもんだとかなんとか、考えているうちに彼女が口を開く。


「コーヒーと、お皿一枚貸してください。」
「う“ぉおい、皿なんてどうすんだぁ?」
「そのサンドイッチ、一つくれるんでしょう?お皿あった方が食べやすいかなって」
「…全部お見通し、ってかぁ?」
「一年も一緒に居れば、少しはね。そうだなぁ、スクアーロが私のこと追いかけてきてくれたことは分かるけど」


 得意げに言い放ってニヤついている天音に、小さく復讐だ。同じくらい勝ち誇って、但し思い切り余裕たっぷりに言い返してやる。下手くそに捨て台詞を吐き損ねる天音とは違うのだ。


「…この、知ったかぶり」


 机の下で真っ赤な靴を軽く蹴飛ばして、きゅっと天音が唇を尖らせて恨みがましく睨んできて、これでまぁ、大体フェアでいい。

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