鮫夢2
□ハローミスタームーン
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(お月さまは不在です_の続き)
毎晩ベランダに出て空を眺める。それは他の生命維持の為の行動と同じ、惰性だった。
一体何の意味があるのかとか、もう俺をここへ引きずりだす人間などいないとか、考えるのも億劫だから、今日もベランダへと。
ふと人の気配を感じて振り向くと、いつもの亡霊がそこにいた。一瞥して、視線を逸らす。
あの日から毎日幻覚を見る。
それは、血の幻覚だ。どこにいようが何をしようが、視界を常に紅色が掠める。紅色は血のくせにいつまで経っても赤黒くならなかった。鮮血のまま。
初めて剣を握ったときから数えきれない程人間を殺してきた、血を流してきた。けれど俺は、この目にこびり付いて離れない紅色が誰の物なのかちゃんとわかっていた。否定しようとも思わない。
飛び散っていたり床に溜まっていたりする血の幻覚に得体の知れないものが紛れ込みだしたのはつい最近の事だ。
それは女の形をしていた。それも、もうこの世にいない女によく似ている。長めの黒い髪も背格好もほぼ一緒で、ただ細かい仕草が違う。
そして何より、その女には、顔が無かった。正確には顔の有るはずの所が真っ黒に塗り潰されたように見えた。真っ黒に見えたそれはよく見れば血だった。そいつが俺に話し掛けているらしい事も分かった。その音声はノイズにしか聞こえないが、俺の目の前に立ってノイズを発しているのは何かのメッセージに違いなかった。
本当ならもっと気味悪がらなければならないのだろう。正直何とも感じなかった。実は幻覚の事どころか、俺を取り巻く全てに対して、さらに言えば俺自身に対しても何も感じない。だから例え、不気味な亡霊に剣を向けられても抵抗はしない。生きることすら惰性だ。そして亡霊は俺が抵抗しないと分かるや否や、剣を収めるのだ。
夜空を眺めもせず、ただ上を見上げているだけの俺の視界の端に亡霊が並んだ。それはしばしばあることで、恐怖も無い、拒絶感も無い。ただ淡々とノイズが俺に訴えかける。ざぁぁあああ、ざぁあああ……
その時、たった一語、ノイズの波を潜り抜けて確かな意味をもった音声が耳に飛び込んだ。
亡霊は、好き、と言った。何度か繰り返した。
いつか聞いたことのある声だ。鼓膜の奥が焦げるように熱い。熱い。熱い。俺はこいつを、いや彼女を知っていた、知っている。
お前は、誰だ。
パッと振り返る。亡霊は既に背を向けている。揺れる黒髪は相変わらずアイツに似ているが、違う、お前は。
腕をつかむ。強く引く。少しバランスを崩しながら振り返った彼女は、泣いていた。相変わらず顔は見えない。血で塗り込められた上を透明な筋が伝う。
彼女が笑った。笑ったような気がした。笑いながら言った。ノイズではなかった。彼女の声だ。それは昔、俺を好きだと言った声だ。
「…やっと泣いた…意地張ってんじゃねーよ、馬鹿、」
まだ顔は見えない。彼女の顔さえ思い出せない。それでも俺はやっと、彼女の正体がわかった。本当はずっと見えていたに違いなかった。俺自身の作りだした幻覚に過ぎなかった。
そんな俺に、一体幾度彼女は殺意を、好意を向けた?
己の頬を濡らす物に手を当て、彼女に対する酷い罪悪感も今までの己の愚かさもこの救いようも無い現状も、全て拭い去ってしまえる気がした。なあ、その為にはどうしたらいいんだろうなぁ。
まずは、彼女を真似て笑ってみようとおもう。
ハロー、ミスタームーン