鮫夢2

□お月さまは不在です_
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 久しぶりに再会したスクアーロには、何か重大な物が欠落していた。

 賑やかな週末の目抜き通りに対して、ふらふらとおぼつかない足取りで死んだように歩くスクアーロは余りに不釣り合いだった。最後に会ってから一年しか経っていないのに、まるで別人だ。私ともスクアーロとも無関係な人の波に乗って、私たちはすれ違う。まるで赤の他人のように、初めから知らない人のように…

 すれ違いざまにこっそり目をやると、ちょうどスクアーロもこちらに顔を向けた。やはり、何か決定的なものが、無い。



「もう、振れねぇんだよ」



 薄い唇から零れた言葉は、ぞっとするほど生気がなかった。

 本当にスクアーロなの?ねえ、あんたはいつだって騒音並の大声で叫ぶ人間だったじゃない、今日のあんたは何か変だよ。そう、問い質したくなるくらいに。

 知らず知らずのうちに立ち止っていた私たちは、人混みの中でかなり浮いていた。波に飲まれる浮きが不安定に揺れる。

 スクアーロの三白眼は信じられない程虚ろで、零す言葉も音声の羅列に過ぎない。ただ、先程の言葉の意味だけは汲み取れてしまう。



「この腕じゃあ、もう一生剣は振れねぇよ」



 気付けば週末の目抜き通りも賑やかな家族連れも、何もかもが背景と化していた。いや、初めから舞台装置に過ぎなかった。背景が急速に色を失っていく中、死んだような元同級生だけが薄らぼんやりと光を放っている。その、白っぽく光るスクアーロが手を伸ばした。手を、伸ばしたんだと思った。ただ伸ばされた筈のその腕には、肘から先の部分が無かった。

 ああ、やっと分かったよ、君に欠けていたもの…




…暗転。



    *   *   *




 懐かしい夢を見た。一頃飽きるほど見たその夢は、いつ見ても生々しく現実づらをして夢の中の私を追い詰める。これを繰り返し見たのはスクアーロが剣帝のテュールと戦った直後、意識不明のスクアーロが生死の淵を彷徨っていた頃である。戦いのディティールを知る二人のうち一人は死に、もう一人は意識不明。何も知らない私は肘までになってしまったスクアーロの腕に何度も涙し、毎晩魘された。スクアーロが死ぬことと同じくらい、その目が開くことが怖かった。だってもしスクアーロが、私の夢と同じように空っぽになってしまったら?それなら、いっそこのまま死んでしまった方がよっぽどいいのだ。そんなことまで考えた。

 その後人間とは思えない生命力でめきめきと回復したスクアーロは意識を取り戻し、その腕を自分で斬り落としたと言うことも聞いた。その時の事を余りに活き活きと話すものだから少し引いてしまったが、これだけ元気ならあの夢は私の杞憂に過ぎなかったんだろう。ほっとしたことの方が大きくて、それ以来長いことあの夢は見ていなかったのに。



 さて。



 月明かりさえ雲に隠れた、夜、暗闇の中でそっと寝床を抜けだす。長年連れ添った愛刀を掴み、音もなく自室を抜け出す。

 誰と会うこともなく廊下を移動し、目的の部屋へ忍び込む。鍵はかかっていない。いつもの事だ。躊躇いも無く歩を進め、横になった形跡すら無いベッドを発見する。

 そこで不自然に開け放たれた窓に目が行く。だらりと垂れたカーテンを従えた外界への接続口。スクアーロはそこから出たのだろう。バルコニーに出てみると、やはりスクアーロはそこに居た。手摺りに腕を預け、月も星も無い空を眺めている。

 一瞥、死んだような目がこちらへ向く。それだけで、私は今日もまた失敗したのだと悟る。

 でも、生憎私は物分かりが悪いし、諦めも悪いから、引き際なんて分からないんだよ。空を眺める、いや、きっと何も見ていないスクアーロの隣に並び、同じように空に目をやる。何も知らない詩人なら、これをロマンチックだと表現するのかもしれない。



 スクアーロは、つい最近死んだ。



 死んだ、と言っても生物学的に死んだわけではない。死んでしまったのは心の方だ。何でも、結婚まで約束していた人を死なせてしまったらしい。詳しいことは知らない。長期任務に赴いていた私が帰った時には既に、スクアーロは廃人と化していた。それでも任務は通常通りこなしていて、取り敢えず生活能力も一応残っていて、だから却ってどうすればいいのか分からなくなった。

 スクアーロの心は、死んでしまった。本人曰く、もうなーんにも感じないらしい。なーんにも。皆無。生理的な欲求さえいまいち実感がわかず、ご飯を食べるのも習慣と惰性のようなものだった。生への執着も無い。

 だから、私は毎日スクアーロの所へ行く。任務の無い時は部屋に籠っているスクアーロの元へ、5分でも3分でも時間さえあれば向かった。

 そしてスクアーロが寝ている時だけ…その心臓に刃を向けた。




 ねえ、君が左腕を喰わせてまでようやっと手にした強さだから、心が死んでも無くなりはしないよ。だってその証拠なんでしょう?君が、寝込みを襲撃する私に当たり前に剣を突き付け返すのは。

 どうして?覚醒した後にその剣を引っ込めるのは、問いただしも怒りも、抵抗すらしないのは何故?

 「うるさい」でも「煩わしい」でも、いっそ「憎い」でも構わないんだ。君に、スクアーロに心が帰って来てくれれば。例えその感情が「殺意」だったとしても、甘んじて受け入れるのに、私はそれだけの為に生きながらえて見せるのに。



 本当は、多分ずっと前から君の事が好きだった。だから、好きな人に死なれた君の気持ちも、多分ちょっとくらい分かってると思うんだ。もし私たちに決定的な違いがあるとするならば、その失い方くらいだろう。目の前で死なれたスクアーロと、見えない所で死なれた私。



「一体どっちが余計に辛いんだろうね。」



 鼓膜は揺らせても、心は揺らせない。それでも言葉にしてしまう私は、筋金入りの諦めが悪い女だ。それを長所だと言ってくれたのは、確か昔の君だった。そう言うわけで、諦めると言う選択肢は随分前に失くしてしまった。ああ、今手元にそれがあったなら!



「好きだよ、好き。好きでした、好きです」



 こんなみっともない真似はしなくて済んだのに。初めての告白がこんなに虚しいのなら、そのうち世界から愛は消えてしまうでしょう。それならそれで、無駄のない効率的な世界になるんでしょうね!

 君の目に反射した何かがただの月明かりだと言うことも分かっていたけど、それを涙だと信じ込んで、今日も諦めの悪い私の完敗である。背を向けて、君を残して歩き出す。泣いているのは私の方だ。明日はきっと……なんて根拠のない定型文を吐きこぼして、こんな現状も暗転してしまえばいいのに。



お月さまは不在です

 突然引かれた腕、振り返った先、背景は光の無い空、主役は君。錯覚でもなんでもなくその頬を濡らすのは、



「…やっと泣いた…意地張ってんじゃねーよ、馬鹿、」



 月なんか初めから出ていなかった。けど、久しぶりに君の目に色が灯ったんだからもう、それだけで、

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