鮫夢2

□コンタクトレンズ__
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 酸欠気味の眼球をシェルターにしまい込んでまやかしの休息、オーバーワークを騙しながら再び酷使、滲んで、滲んで、滲んできた。

 例えば部屋の真ん中でひからびたコンタクトレンズの残骸を見つけることが意味するのは解放か束縛か、という哲学的な問いに対しても、貴方は三秒で答えを出してくれたはずだ。問題は、その貴方がここから三秒で行けるところにはいないという現実の方である。

 ただ、会いに行く為の口実は努力次第で三十分程で作成可能だ。

 瞬きすれば剥がれてしまいそうな乾いたコンタクトごしにインクの染みを睨む。睨んだのは、確かにインクだった。




    *  *  *




「ねぇ、隊長」



 扉を開けた途端高く愛らしいきゃあという悲鳴が聞こえた。聞こえなかったことにした。それでノックをしていなかったという事実に気付かされたわけだけれど、まあいい。ノックの習慣が無い。この部屋の主と同じように。

 自分の体で廊下からの光源を遮りながら、甘ったるい部屋へと声を落としこむ。香水でも引っ繰り返したかのような重苦しい馨りの中、ねぇ、私の肺はそんなに優秀じゃないから、酸素なんか取り入れられない。

 空気同様気だるい、但し徹底した無糖具合だけが異なった声が返答する。



「…何だぁ」
「例えばひからびたコンタクトレンズを、」



 声が裏返った。多分この甘ったるさのせいで。

 あれ程聞きたかった筈の質問が扁桃腺で引っ掛かって出てこない。きっと三秒で解決する筈の疑問がどうしてこんなに気道を塞ぐのか分からない。



 ああ、もしかすると私は。始めからそんなことどうでもよかったのかもしれない。答えなど初めから意味を持たない、求めていない、だって質問自体に意味が無いもの。



 静寂に苦痛を覚えたことは無かったけど、ここの空気は私を痛めつける。無能な肺は役に立たず、どうやら水中では生きられないらしい。行き場を失い宙を彷徨う疑問のやり場すらどうでもよくなっていた。

 ならば、もうこんな場所に居る必要性はない。ついさっき捻って押し開けたドアノブを掴み、体ごと引いて、



 さよなら。



「う”ぉおい」
「…はい」
「報告書。出しに来たんだろぉ?」



 ああ、もう!何引き止めてんだよ!睡眠時間削って書き上げた報告書や任務計画書なんて、とっくに用済みなんだよくそったれ!

 だからと言って書類を放り投げることも出来ない。握っていた部分は微かにひしゃげていた。仕方なく甘ったるい空気の中へ踏み出し、部屋の主であり直属の上司でもある男に書類を突き出す。

 かったるそうに上半身をシーツから起こしたそいつは上を着ていなかった。ブランケット的な布に包まる隣の人に至っては多分下も着ていない。朝っぱらからこの状態だなんて、つくづく教育的でない上司を持ってしまった。ここへ来たのが優秀な部下だったからいい様なものを…ああ、優秀な部下はそもそもここには来ないものか。

 身を起こした上司が想定外にシーツから抜けだしてきて少し戸惑ったが、有りがたいことに下は履いていた。差し出された書類には目もくれずカッターシャツを羽織り出した上司の意図が読めない。今更自分の格好が恥ずかしくなったと言うことはまさかないだろうが。



「隊長、今日は任務が」



 ありませんからまだお休みになっていても大丈夫だと思います。殺人的に鋭い目で睨まれて言葉の続きが霧散した。ただでさえ隊長は目つきが悪いのに、その上睨みつけてくるなんてもはやただの犯罪だ。なんて犯罪集団のナンバーツーに言った所で無駄だ。

 そのまま戸口へと向かった隊長に目で促されて、と言うか目で命令されて従う。後ろの方で女の人が何か言っていた。多分私に向けられてはいないだろうと聞き流す。

 急に廊下へ出たら無遠慮な明るさに目が眩んだ。窓から差し込む光が隊長の銀糸で乱反射する、錯覚に陥る。

 場違いなほど無垢な煌めきだ。貴方には似合わない。

 銀糸で覆われた背中に呟く。



 連れてこられたのは隊長の執務室。ここへきて漸く書類を受け取った隊長はそれに目を通すこと無くデスクへと置いた。ざっと見る位してくれてもいいのにといつも思うが、隊長に言わせればこれは信頼の表れなんだそうだ。どうせミスはないだろうからと。立派な職務怠慢だと思っているのはどうやら私だけらしい。



 ふぅ、と溜息を零してデスクについた隊長は珍しく疲れているように見えた。

 それは心持ち俯いているせいか、光の加減か…



「わりぃな」
「…どうしたんですか、急に」
「アイツには、お前が情緒不安定な部下だって言ってある」
「…陰で人の評判下げるなんて最低な上司ですね。いや寧ろ人として最低ですね」
「何とでも言え」
「そんなことをして何の意味があるんですか。」
「だから、俺はあんまし長時間てめぇを放っておけねぇことになってる」
「…」
「そうでも言わねえと逃げらんねぇ」



 情けないですね。素直にそう言うと、只管渋い顔をされた。



「隊長も学習能力が無いですね。なまじ誠実な隊長が女遊びなんてするから、手を切るタイミングを逃してこういう面倒なことになるんですよ。」
「…うっせぇ」
「まあ、頑張ってくださいね。私は情緒不安定な部下なのでお力添えは出来ませんが」
「だから悪かったっつってんだろぉ。」
「別に、怒ってはいませんよ。口実に使っていただくのも一向に構いませんし、それに、情緒不安定と言うのも強ち間違っていませんし。…ああ、それとさっきは時間帯も考えずに押しかけて行ってすみませんでした。」



 朝早くから上司の部屋に押し掛けて行ってコンタクトレンズの話をしに行く部下の、一体どこが安定している?そう言えばコンタクトレンズの「コンタクト」と言うのは、接触と言う意味なんだろうな。不意にそんなどうでもいいことを考える。眼球に接触しているから、コンタクトレンズ。じゃあ、剥がれ落ちたらもうコンタクトとは呼べないのではないか?

 ほら、情緒不安定。



「…で、コンタクトがどうしたって?」



 頭の中を覗かれたかとぎくりとしたけれど、私も隊長もそんなテレパシー持ち合わせてはいない。ただ、隊長もコンテクストからさっきの事を思い出しただけだ。



「いいえ、大したことじゃ無かったので忘れて下さい」
「そうは見えなかったがなぁ?」
「始末した標的とこれから始末する標的について徹夜で向き合っていたせいです。」
「何をどうやったらそこからコンタクトに飛躍すんだよ」
「…隊長」
「あ”?」
「…部屋の真ん中でひからびたコンタクトレンズの残骸を見つけることが意味するのは、解放ですか?それとも束縛?」



 今度はすらすらと言えたのは、きっとここの酸素との相性がいいのだ。

 きっと、3秒で。心の中でカウントをしながら隊長を見やる。隊長が呆気にとられたのは一瞬だけで、流石は私の上司、付き合いの長さは伊達じゃない。すぐさま苦笑を形作ったその口は、まだ2カウント目だと言うのに答えを弾きだした。



「どうでもいいだろぉ、んなもん」



 思えば、隊長が何の思考も迷いも経ずに答えると言う、その過程こそがこの問いの核心だったのだろう。私の抱える情緒不安定が彼の思考に値しないと言うその事実に因ってしか、私の情緒不安定を抹殺することは出来ない。だってそもそもこの情緒不安定は隊長のせいなのだ。

 仕事以外でもお疲れの様子な上司の仕事を引き受けるなんて、我ながら良い部下だよ本当に。情緒不安定は睡眠不足のせいだ、まるっきり全部そのせいだ。そうに決まっている、だって他に原因なんか思いつかないよ。

 視界の下端が滲んでいるのは、きっとコンタクトレンズを付けっ放しにしたせいだ。そんな冤罪を被ったコンタクトレンズの方が私よりよっぽど自由なんでしょう?だって、目の中に無ければコンタクトなんて意味が無いじゃないですか、ゴミじゃないですか。



 隊長は、やはり場違いに無垢な陽光を纏って、飾り気のない壁に目をやりながら口を開いた。その壁の先を私は知っていた。



「まぁだが……どっちかって言やぁ、束縛だろうなぁ」



 同じように何もない壁に目を向けて、そうですね、と適当に相槌を打った。



 ああ私ってば、本当にコンタクトそのまんまだ!!

コンタクトレンズ
 隣に居るのに別々の事で思い悩む私と隊長の関係はコンタクトレンズと眼球の関係に酷似している。
 乾いた眼球には、涙が浮かんでるくらいがちょうどいい。
 床の上からでも、干からびていても、コンタクトレンズは眼球を切望する。唯一無二の存在意義を、必要美に裏打ちされた強固な関係性を…
 だって、そうじゃなきゃコンタクトレンズなんかなんの意味も、意義もない!!

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