鮫夢2

□覚悟はあるか____
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 俯いて歩くから、頬に触れる感触よりも路面の染みで気付くことの方が多い。

 何となく嬉しかったのは雪ではなく雨が降ったこと、ようやっと春が来たから…などではない。今このタイミングで雨が降ってきたのが何かの前触れのような気がしたから。たぷたぷたぷと、雪解けで増水した側溝の水が絶え間なく音を立てる。

 私の期待する何かの前触れ。何か、とは言ったけれど、私の期待する何かなんて初めから限定されている。

 アパートの玄関で見慣れた黒いブーツを見つけて、その予想が当たっていたことを知った。長いことお世話になっているアディダスのスノトレを放る様に脱ぎ捨て、バタバタと部屋へ駆け込む。



「う”ぉおい、何処行ってたんだぁ。」
「ごめんなさい、バイトが長引いて」



 拗ねるようにそっぽを向いたその人は、ひょんなことからうちに遊びに来るようになったスクアーロと言う人だ。名前以外何も教えてくれないこの人を快く迎え入れる私も、大して面白くも無い私の所へ頻繁に顔を出すこの人も、きっと新しい何かが始まることを心の奥で期待している。よっぽどの暇人なのだ、精神的な意味で。
 
 スクアーロさんは大抵ふらっと何の連絡もせずにここへ来る。そのくせ私がいなかったりするとこうやって拗ねる。機嫌を直させるのはそう難しくは無いけど、部屋の鍵も渡していないのにどうやって入り込んでいるんだろう。一歩間違えばと言うか既に犯罪の域だけど、別に悪さをしてる訳でもないから何も言わない。

 紅茶と焼き菓子をそっと並べて、スクアーロさんがそれらに手を伸ばすまで黙って待つ。野良猫に餌をやっている気分だ。どんなにかかっても紅茶が冷めきる前には飲んでくれるから、それを見届けてから私も自分のティーカップに口を付ける。この頃になるとスクアーロさんの機嫌も大分直っている。

 さて、そんなスクアーロさんがここに何をしに来るのかと言えば、ただただこうしてのんびりしに来ているらしかった。紅茶、それか時々コーヒーを二人で飲みながら、話をしたりしなかったり。私は大学やらバイト先での話をたまにするけど、どちらかと言うと聞く方に回ることが多い。学生の私と違いどこか大きなところに勤めているらしいスクアーロさんは、企業機密に関わるからと仕事の話は詳しくはしてくれない。私が知っているのはスクアーロさんが会社の人間関係でぐったりしているということくらいだ。その愚痴はちょくちょく話題に上り、それと一緒に「結構忙しいもんだぜぇ」っていうのも聞かされるけどこっちは信用していない。忙しい人がこんな頻度でここに来れる筈が無いから。

 そうだ、もう一つよく話題に上ることがある。



「スクアーロさん、彼女さんとはうまくいっていますか?」
「お前、結構被虐的だよなぁ」
「え?」
「…いや、何でもねぇ。まあ、相変わらずだなぁ。天音の方は、」
「こっちもいつも通りですよ」
「お前、本当そう言う話ねぇよなあ」
「いいんですよ、こっちの方が楽ですから」



 スクアーロさんの恋バナである。相変わらずと言うことは仲が良いのだろう。この話題を持ち出すとスクアーロさんは複雑な顔をするけど、相手の人の事はちゃんと愛しているんだろう。その証拠に、スクアーロさんが電話で呼び出されてここから飛び出していくことはしょっちゅうだ。携帯のディスプレイにその名を確かめた段階でもうここを出る用意を始める。嫌な顔一つせずに、時には電話をしながら玄関を出て行く。そう言う時スクアーロさんは一切こちらを顧みない。半端に残った紅茶や焼き菓子を捨てるのも最近は抵抗が無くなってきた。最初は勿体無くて食べようかと思ってたけど。

 スクアーロさんは知らない。私が女友達との会話で言う「好きな人?うんまあ、いるけど、多分皆は知らない人だと思うよ」の好きな人と言うのが、実はスクアーロさんだと言うこと。お陰で私が先の無い横恋慕を患っているのは仲間内では結構有名になってしまっていて、でもそれが本人に伝わることは絶対に無いから構いはしないのだ。



 以前、ここに来ていることを彼女さんは知っているんですか?と尋ねたことがある。



「いや、特に言ってねぇ。それがどうかしたかぁ?」
「いいえ、深い意味は…」



 心底不思議そうに首を傾げたスクアーロさんに、私が恋愛対象に掠りもしていないことを思い知らされた。だってもし女の子として認識されていたら、彼女さんに対して罪悪感がある筈だから。「何だぁ、気になるから言えよ」なんて追求できる筈が無いから。



 実は、二人目でもいい、なんて割と本気で思ったりもしている。遊びでも良いから、口説き落としてほしかった。心変わりしてくれればいい、とも思う。いっそスクアーロさんなんて振られてしまえばいいのに、とそこまで考えて自分の浅ましさに自己嫌悪に陥る。そもそも、あんなに一途なスクアーロさんが心変わりなんかする筈が無かった。振られることも無いだろう。だってスクアーロさんは、どんな物差しで測っても最高値しか叩きだせないような人だ。かっこいいし、何より優しい。殊に、電話を受ける時の真剣な眼やら口調やらは見ていて羨ましくなる。どうやったって、私に向けられることの無いそれら。



「…う”ぉおい、どうしたぁ?」



 気付かないうちに考え込んでいたらしい。会話も無くぼんやりとし合うことはよくあるのに、こういう時、考えるのを止めたい位辛かったり苦しかったりする時には、見計らったように声をかけてくれる。

 気遣う様子を見せるスクアーロさんに胸がいっぱいになる。ああ、やっぱり片思いでも良い。こうやって近くにいて、時々一緒に居られるだけでも良い。こうやってそっと胸を高鳴らせるだけで、きゅんと狭くなるこの想いを抱えていられるだけで良い。あれこれ高望みするのはそれこそ贅沢と言うものだ。



「いいえ、何でも無いですよ」



 なおも疑わしげな眼を向けてくるスクアーロさんに、本当に何でも無いですって、と繰り返していた時だった。スクアーロさんの携帯がちかちかと光りながら震えた。ディスプレイに現われた名前は、いつものごとく。

 携帯を耳に当てながら立ち上がるスクアーロさん。その足は既に出口へと向かっている。

 今日は少ししか一緒に居られなかったな。行かないで、って言えればどんなに良いだろう。

 スクアーロさんは、本当だったらそのままいなくなる筈だった。それがもはや定型となった流れであり、私たちの別れ方だ。なのに今日、スクアーロさんはブーツに片足を突っ込んだ状態で動きを止めた。



「はぁぁあ”あ”あ”???!!!う”ぉおい、クソボ……こっちに来るって、どういう、……くそ!!アイツ切りやがった!!」



 手にした携帯を今にも叩きつけそうな勢いで吠えるスクアーロさん。こんなに取り乱している所は初めて見た。クソとかなんとかちらちら罵声が混じっていたけど、まあそれはいい。カップルに喧嘩は付きものだ。それよりも、スクアーロさんの言っていた「こっちに来る」という言葉のほうがよっぽど衝撃的だった。



「スクアーロさん、こっちに来るって一体、」
「天音、俺が良いと言うまでここから出るなぁ。カーテンと窓も閉めろ」
「え?」
「…悪かった。俺の不用心だぁ」
「スクアーロさん、何の話を、」
「もうここには来ねぇ」



 ああ、これが「体が石になる」って言う奴か。他人事のように思いながら、スクアーロさんの言葉を咀嚼しようとする。もうここには来ない。もう、ここには、来ない。一つずつ咀嚼するように繰り返して理解しようとするけど、脳が受け付けてくれない。違う、拒絶しているのは心の方だ。信じたくない、信じたくないのに、

 なのに、こういう時ばかり私の理性と言う奴はちゃんと働きやがる。

 動けないでいる私にもう一度「悪かった」と呟いたスクアーロさんが窓とカーテンを閉じ、カップを流しへと下げてから玄関から出て行くのを止めようとはしなかった。

 分かりたくなかったけど、知ってたよ。悪いのは全部私なのだ。

 多分、スクアーロさんがここに遊びに来ていることが彼女さんに知られたのだ。それで怒った彼女さんがこっちに来るって言って。でも、スクアーロさんはいつでもあなた一筋だったんですよ、なんて私が言った所できっと説得力なんか欠片も無い。



「スクアーロさん、ごめんなさい…」



 これで二人が別れるようなことがあったらどうしよう。いっそ振られてしまえばいいなんてどうして考えたりしたんだろう?スクアーロさんが傷つくことなんかわかってるのに、そうしたらきっともうここにも来なくなるのに。

 ああ、もうどっちにしろ、会えないんだっけ。

 最初から私しかいなかったような薄暗い部屋。テーブルの上のカップまで一つきりで、何で今日に限って片付けて行ったの、余計に寂しくなるでしょう、なんて多分スクアーロさんがいたら言えなかった。



 ぼんやりと膝を抱えて、まだ温もりの残ったカップに口を付ける。明日からはコーヒーにしよう。まだ紅茶の葉は残ってるけど、友達にあげてしまおうか。どうせ暫くは飲む気になれないのだ。分かり切っていた失恋だったのに、いつかこうなる、の「いつか」が今だっただけなのに、準備は出来ていると思っていたのに。とんだ思い違いだ、自分を買いかぶり過ぎていた。

 ああ、そう言えば今日は雨だ。屋根を叩く雨脚はこんなに強いのに、スクアーロさんは傘を持っていなかった。貸してあげればよかった。ねえ、そうしたらもしかして返しに来てくれたかもしれない。変な所で義理堅い人だったから。
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