>3月 後藤島田

□1ヶ月
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――今思えば、あの一杯がいけなかったのだと島田は思う。
東京に出てきた後輩の棋士と久しぶりに飲んだ。
対局のあったテレビ局の裏で昼飯を食い、そのまま千駄ヶ谷の将棋会館に流れた。あちこちにあいさつに回る後輩につきあい、ついでにちょうど開催していた子供将棋教室に巻き込まれたりしながら、会館を出るともうすっかり夕暮れ時だった。
どうする? どっかいく? 東京のうまいもんでも食わせてくださいよ。いやあ俺あんまりそういう店知らないしなあ。
他愛もない話をしながらとりあえず近場の新宿に場所を移した。馴染みと言えないまでも何度か来たことのある居酒屋に入り、時間制ですとあっという間に追い出され、また千駄ヶ谷に戻って最終的には会館近くの小さなバーに陣取った。
四つ場を変える間中、話題は将棋のことだけだった。今日の対局、感想戦のやり直し、後輩の本拠地である西方面の最近の動き、指し手の流行り廃り、注目棋士若手棋士そろそろ陰りの見え始めた棋士。実質そのもの将棋の検討から、下世話な人間評まで出そろったところで、不意に相手がその名を口にしたのだ。
「そういえば最近、後藤さんに会いました?」
今日一日で大分聞き慣れた西の言葉は、その部分だけ妙に浮き上がって聞こえた。
場所柄棋界馴染みのバーのカウンターで、好みの日本酒をちびちびとやりながら、島田は並ぶ酒の瓶を見つめたままいやと答える。
「全然。最近対局ないしな」
「はあそうっすか」
あの挑戦者戦、最高だったですよねえ。
そろそろ回り始めた酒のせいで、幾分かふんわりした口調で後輩が言う。
挑戦者戦はね、と島田は冷めた気分で思いながら、後輩のウィスキーがからからと氷の音を立てているのをちらりと見る。そして滅多に飲まない――持病にそれはもう最高に悪い影響を与えるので――酒の勢いに任せてつい聞いてしまった。
「何? 後藤さんがどうかしたの」
口にして、自分の声が形になって耳に届くのを聞いて、島田は自分が心底嫌になった。
先の神聖なる将棋会館での実に不道徳なエレベータでの一件。最低最悪なあの一時をなかったこととして封印したのはつい一か月前のことだ。心配そうに自分を見る桐山に、大丈夫だと笑って見せ、その割には話にならない程の動揺っぷりに、後輩棋士や弟弟子に「体の具合でも悪いんですか兄者!」とか「島田さんも年だしなあ」とか散々言われた対局見学と検討会を最高に反省して、もう二度とあの男とのことは思い出すまいと決めたはずなのに。
なんで問いを重ねてるんだ。俺は。
いやそりゃ、いかにも聞いてほしそうな空気を出す相手のためにね、話振るっていうね。
別にやりたいわけじゃないけど、なんとなく実行してしまうのが性って言うかなんていうか。
ぼそぼそと胸中で言い訳しているうちに、隣の後輩がよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの表情で言った。
「いやあ、噂ですけどね――」
そうひそやかな声で言う後輩の台詞の後、島田は日本酒から洋酒に切り替えた。
薄く作ってもらった一杯を飲み干し、二杯目にいこうとしたところでバーテンダーにそろそろ店じまいだと告げられた。そのまま通りでタクシーを拾い、新宿のホテルに帰る後輩を見送り、こちらは歩いて近くの駅に向けて歩き始めた――はずだったのだが。
今。
深夜一時を回って、ざわざわと背後で鳴るのは、風に揺れる木々達だ。
将棋会館近くの古い神社。その石段に座り込んで、島田は目の前の道をぼんやりと見ている。
ぽつぽつと等間隔に街灯がともる道には人気がない。このあたりは閑静な住宅街だし、唯一の施設である我が城――将棋会館もこんな日の変わる時間ではとっくに閉まっている。何度も何度も行き来した道。春もまだ浅いこの時期、深夜ともなれば腹の底から冷える石段に身を預けて、ただでさえ悪い胃を凍えさせながら立ち止まる必要などどこにもないはずだった。
――この足が、言うことを聞いてくれたならば。
もともと酒にはめっぽう弱いのだ。それがちゃんぽんなら尚更。切り替えるならば早い段階で、それも度の低い酒でないとだめだ。日本酒から洋酒の流れは一番悪いパターンで、何度もそれで痛い目を見ているというのに。


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