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□江戸トリコ小噺
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――からりと開いた、その戸に手をかける前から、小松が不在なのはわかっていた。
空っぽの六畳一間の長屋を見回し、ゼブラはふんと鼻を鳴らす。
草鞋を脱ぎ、家主のいない部屋に勝手に上がる。一連の出来事を経て、小松の部屋には何度か訪ねていたから躊躇いはない。手に提げた酒瓶を板の間に置き、どかりと胡座をかいて座り込んだ。

午後に入りかけた日が、障子を通して部屋一杯に差し込んでいる。南向きのよい部屋なのだと言っていた、その声を思い出しながら、ゼブラはなにするでもなく部屋を眺めていく。
二枠の障子。障子紙はぴんと白い。正月を前に貼り直したのだろう。年末、糊やら何やら買い込んでいた姿を思い出す。
白茶けた畳。焼け具合は相変わらずだが、塵ひとつ落ちていない掃除っぷりはさすがだ。行李や戸棚にも、埃がかかっている様子はない。よほどまめまめしく片付けているのだろう。本人は職業病なのだと笑っていたが。
部屋の隅には衝立がひとつ。その向こうには布団がきちんと畳まれている。ちょこんと上にのった小さな枕に目をやりながら、ゼブラは視線を左へと流す。
玄関の横に小さな台所がある。竈には細いしめ縄。棚の上にはどこぞの稲荷の神札。よく研がれ、黒光りする刃物はそろえて壁にかかり、分厚いまな板はしんと静かに脇に立て掛けられている。
傷だらけの一枚板に、ゼブラは目を細める。仕事場からもらってきたのだとうれしそうだった、家主の顔を思い出す。

――かん、かん、と高い音が耳に届く。
長屋の表で娘共が羽子板をやっているのだ。先程、酒瓶を提げてのっそりと歩くゼブラを見ても、驚いた様子も見せなかった童達。お邪魔だよ、と言い合って、横に脇に避けていった長屋の子ら。
たまに小松が、あの子らにおやつをあげているのを知っている。店で客にもらった菓子やら果物やら、持ち帰っては惜し気もなく配ってしまう。こんなに食べられないんで。懐に菓子を抱え、うれしそうな顔をしていた店からの帰り道。
月がきれいだった。細く夜空の端にかかる、上弦の月。
――ゼブラはごろりと横になる。
かん、かん、と羽子板が、羽をはじく音が響く。
単調で、たまにずれ、繰り返していくその音。
正月の静寂に沈み込んでいくような気分で、ゼブラはうっそりと目を閉じた。





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