>トリコSS

□あの日あの時あの時間
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もともと滅法、酒には弱い。
ふらつく足元をどうにかしようと叱咤激励しながら、研究所の廊下を歩く小松は思う。
この年になれば自分の酒量などとうに把握している。そういった機会の多い職場でもあるし、仕事と私用の境目が薄い時期も長らくあった。下っ端の料理人の位置などカーストで言えば奴隷のような物だ。ピラミッドの最下層に、酒の誘いを断るという選択肢などあるはずもない。

いろいろと失敗もしてきた。はずかしながら路上で朝を向かえたこともある。熱いアスファルトの端っこで、道行く通勤者からの痛いほどの視線を感じながら、隣で寝こける先輩を揺さぶり起こしている時はさすがに反省した。
以来、量は控えるようになった。かわりに会話を多くするようにした。そのうちだんだん立場は変わっていって、「苦手なので」と言えば「じゃあ何か酒気のないものを」と周囲が気を使ってくれさえするようになった。
小松にとって料理長になってよかったことの第一位はそれだったりする。
久しぶりに過ぎた酒を実感しながら、小松はふうとため息をつく。


――先程までついていたテーブルに、そういった人種はいなかった。


いたのはウワバミのように酒樽をあける所長と、ザルというより枠なトリコと、気に入りの酒しか飲まない気づけばダース単位ででワインをあけているサニーだ。
文字どおり命をかけたジュエルミートの実食なのだから、仕方ないと言えば仕方ないが、それにしたって度が過ぎると小松は思う。水のようにお茶のように酒を空けていくそのペースに釣られて、こちらまで杯を重ねてしまった。注がれれば飲みたくなるし、飲んで空ければまた注がれる。
ギブアップを宣告する間もなく飲まされていたら、見かねたのだろう、隣にいたココが助け舟を出してくれた。
小松が持つ空いたグラス、それをごく自然に手で覆い、酒瓶を突き出していたマンサムに向けてにこりと笑う。


「所長」
「ああ?」
「彼はそろそろ限界です」


そうだよね、と向けられた優しい視線に、小松は一瞬あっけにとられ、そしてぶんぶんと頷いた。
その拍子にまわった酒気に若干気持ち悪くなっていると、ため息の後に背中にそっと手が回った。


「立てる?」
「あ……なんとか」
「じゃあ少し涼んでおいで。トイレの場所はわかる?」


それならさっき一度行った。こくりと頷いた小松に少しだけ苦笑して、ココは所長に向き直った。酒を突き出すマンサムに向けて自らの杯を差し出す。


「それは僕が受けましょう」
「おお。珍しいな! ココ!」
「ここなら多少のことがあってもなんとかしてくれるでしょう」


何せ僕を作ったところですから。
よく考えれば恐ろしいことをにこやかに言って、ココは小松を押し出した。
そりゃあそうだとマンサムもことさら豪快に笑い、それいけやれいけと酒瓶を傾ける。申し訳ない、と思ってココを見やれば、視線に敏感に気づいたココが、肩越しに片目をつぶって見せた。
去り際に鮮やかなウィンクを飛ばされて、小松はうわあすごいこの人かっこいいなあ、とかなり感動した。
かっこいい人がかっこいいことをやると、嫌味にならないんだなあ。
得だなあ。いいなあ。そんなことを思いながら宴の会場を抜け出した。
大きな両開きの扉が背後でしまった時は、正直ほっとした。


しんとした廊下。長い道の横はすべてガラス張りになっている。頭の先からつま先まで、小松の平均より小さな身長など遥かに超えて伸びる大きなガラスの向こうには、恐ろしいほどに暗い夜が広がっていた。
明かりがないのだ。庭、なのだから当然だ。小松の勤めるホテルも同じような作りだが、外の夜景は美しい。人工的な明かりの氾濫。人が夜を追いやろうとして灯す華やかな明かり。
ここは、夜が夜のままだ。
そんな事を思いながらふらふらと歩く。階下に、テラスがあるとココが耳打ちしてくれた。本当にあの人は隙がない。
あんなに人に気を使ってて、疲れないのかなあ。
景色のいいテラスとやらで少し休もう。水も持ってくればよかったな。のんきに考えながら、小松は見つけたエレベーターに乗り込んだ。

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