水塊に溺れる

□福音の鐘の音が聞こえる
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今日は授業が昼までで、放課後の教室はそのことが嬉しいクラスメイト達でにぎわっていた。
友人は進路相談があるとかで、先に別れの挨拶をすませた。
特に用事のない私は、そのまま家に帰ることに。家で勉強でもするか、と思案しながらリュックを背負って後ろのドアから出ていこうとすると、目の前に人が現れた。
見上げると、及川くんが。
どこか苦しそうな、悲しそうな…けれど悔しそうな瞳をした彼に、私はひどくどきりとした。
何も言えなくて、そのまま見つめる。

「名前ちゃん」
「う、うん?」
「ちょっといい?話したいことがあるんだけど」

部活は、といいかけて、今日が月曜日だったことを思い出した。こくりとうなずくと、そのまま手を引かれて教室を連れ出される。
歩く度に人が少なくなっていく様に、空き教室がたくさんある方の校舎…所謂別棟に向かっていることがわかった。
よほど誰にも聞かれたくない話なのだろう。そう思った瞬間緊張してきて、深呼吸をした。



少しほこりっぽく感じる廊下までくると、及川くんが足を止めた。ぱっと手が離されたので、そのまま自分の身体の方へ戻す。
こちらに背を向けたままの及川くんを不思議に思ったが、彼の言葉を静かに待つ。

「昨日…また告白されたんだ」
「うん、そっか」
「そしたらその子、泣いちゃって」
「えっ…た、大変だったね…?」
「違うよ、断られたから泣いたわけじゃないんだ」
「?」
「名前ちゃんのこと殴っちゃったから…ごめんなさいって」
「!」

あの子、か。すぐにわかった。私は気にしていなかったのに。きっと心根は優しい子なのだろう。言わずにはいられなかったんだ。

「どうして…どうしてなの」
「…?」
「どうして、俺に何も言ってくれないの」

目の前の背中が震えている。その感情がなんなのか分からなくて、ひどく戸惑った。けれど、何か答えなくちゃ。慌てて口を開く。

「衝動的な行動で悪気はなかっただろうし、私は気にしてなかったから」
「………」
「ごめんね、言えばよかったね」
「…違うよ」
「え…何が?」
「悪気なんかあるに決まってる」
「そんなことないよ、あの子は…」
「違うよ!」

突然大きくなった及川くんの声に驚く。

「罪悪感に押しつぶされそうで苦しくて俺に言ったんだ!ごめんなさいって…俺に許してくれって!」
「!」

思いもよらなかった言葉に呆然とした。先ほどまで穏やかだった心臓が、どくどくと早鐘を打つ。
お互いそのまま黙り込み、あたりはしん、と静まり返る。
どうしたら良いかわからず、うつむいた。心臓の音が聞こえるんじゃないかと怖くなって、思わず胸元を押さえる。
数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。静寂の後、強く抱き寄せられた。リュックごと包み込む及川くんに、私よりずっと大きな身体と長い手足なんだと改めて実感させられた。

「俺は…許さないって言ったよ」
「…うん」
「二度と俺達に近付かないでくれって言った」
「………」
「名前ちゃんは優しいから…ひどいって思うんだろうけど」

諦めたような、けれど優しいような。そんな声色がたまらなくて、目の前の胸板に顔を埋めた。

「俺は名前ちゃんを傷付けるやつは絶対に許さない」
「及川、くん…」
「名前ちゃんのことが好きだから」

…嗚呼、私は本当に馬鹿で阿呆で最低な人間だ。

及川くんが本気で私のことが好きだってわかってる、なんて口先で思っているだけだったんだ。

彼の本当を…心の底からの思いを、理解していなかった。
こんなにも、私のことを愛して大切にしてくれる人だと気付いていなかった。

熱が奥底から込み上げて、身体中に流れていく。
顔もひどく熱くなって、瞳から涙が溢れ出た。及川くんの制服を濡らしてしまうと頭ではわかっていたけれど、どうにも止めることは出来なかった。

「ごめん…ごめんね」
「俺は…名前ちゃんに謝ってほしいわけじゃ…」
「ううん…謝らせて」

ごめんなさい、ごめんなさい、と何度もうわ言のように繰り返した。
それにこたえるかのように、及川くんは腕の力を強める。

彼の熱と、私の熱。それは確かに、そこに存在している。
きつく身を寄せあって…火傷しそうなくらい熱い。

ああ、それでも。もう、離れたくない。



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