水塊に溺れる

□海を渡る青を忘れない
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自習、と大きく黒板に書かれたそれがはやし立てるように、教室内はいつもよりざわめいていた。
先程終えたばかりの席替えもその一因だろう。
受験や就職活動が本格的になってくる中、最後の席替えになるだろうことも皆なんとなくわかっているのだ。だから余計に、気持ちが落ち着かなくなるのだろう。
私も隣の席になった人物のことで、心の中がそわそわして落ち着かなかった。

「よろしくね、及川くん」
「ん、よろしく、名前ちゃん」

隣の席の彼…及川くんに笑顔で語りかけた。
いつもよりどこか憂いが見える及川くんの笑みが返ってきて不思議に思ったが、何も言わずそのまま課題の問題集に目を落とした。

「ねえ、名前ちゃん」
「ん?なに?」
「アルゼンチンってさ…どう思う?」

シャーペンを走らせていた手を思わず止めた。予想もできない問いかけに目を丸くすることしかできず、思いついたことをおそるおそる声に出してみた。

「えっと…国…?」
「うん、国ではあるんだけど」
「ああ、知識として?」
「うん…まあ…」
「情報収集の時色々調べたことあるよ」

昔から、時間があればジャンルを決めず色々なことを調べることを続けてきた。いつか小説を書く時の知識や教養になるかもしれない、と。
アルゼンチンも、いつだったかは忘れたが調べたことがあった。

「悪そうな国には思えなかったな」
「うん…そう、だね」
「及川くん興味があるの?」
「…うん」
「そうなんだ」

意外、と返すとどこか翳りのある顔で及川くんは笑った。怪訝に思ったが、どうにも言及することははばかられた。
今日の及川くんは…なんだか少し、変だ。

「名前ちゃん」
「うん?」
「俺が外国人になったら…どうする?」

突然の質問に面食らう。なんというか、突拍子もない問いかけだと思ったのが正直なところだった。
えーっと、海外に住むとか…もっと言えば国籍を変えるとか、そういうことでいいのだろうか?

…それでも、私は変わらないな。

「及川くんは及川くんだから。私は今までと同じだよ」
「…本当に?」
「うん、本当に」

すうっと綺麗な色白の顔が近付いてきて、いやにどきりとした。どうしたらいいかわからず黙り込んだ私と、形のいい唇を閉ざす及川くんとの間に静寂がおとずれた。

しばしの間の後。及川くんが頬を両手でバチン!と叩いた。予想もしなかった行動に肩をびくんと大きく揺らす。
び、びっくりした…。

「ごめん」
「う、うん?」
「変なこと聞いてごめんね」
「ううん、話しかけてくれるの嬉しいよ」
「…うん」

そう言うと、及川くんはほっとしたように微笑む。その優しい笑みに、いつもの及川くんが戻ってきたような気がして、私もひどく安堵した。


彼がこの時すでに将来をかたく胸に誓っていたことを、無知な私は知らずにいたんだ。




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