水塊に溺れる
□煌めいて、闇
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「名前ちゃん」
「ん?」
「ここなんだけど」
「うん」
コーヒーを端の方に避けて、及川くんの方へ身をのりだした。指された問いを見る。先程私も悩んで答えを出したところだった。
「ああ、ここは…」
「………」
「及…じゃなかった。徹くん?」
「えっ、あ…ごめん、聞いてるよ」
「…?」
及川くんの顔がほんのり赤くなったような気がした。
…部屋、暑いかな?
「終わった…」
大きく伸びをする。んん、と声が漏れ出た。
及川くんはへなへなと脱力して、テーブルの上にのっそりと顔を置いた。
「疲れた…」
「ちょっと難しかったね」
「クッキー食べてもいい?」
「どうぞどうぞ」
「ん…おいしい!」
「よかった。私も好きなんだ、これ」
頬杖をついてクッキーを食べる及川くんを見つめた。
もぐもぐとほっぺたを動かす姿は、素直にかわいいと思った。美しい人間って、本当に何をしても様になるなあ。
「あの…名前ちゃん」
「うん?」
「お父さんとお母さん、そろそろ帰ってくる? ぜひご挨拶したいんだけど」
「あー、今日はもう帰ってこないかも」
部屋の時計を確認して、うん、帰ってこない。と続けた。及川くんは純粋な瞳をまん丸にして、ひどく驚いている様子だった。
「か、帰ってこないって…?」
「うち、共働きなんだ。医者なの」
今頃の時間に連絡があれば遅くても帰宅するんだけれど。連絡が無いということは、患者さんの病状悪化とか、緊急手術などの不測の事態が起こったことがほとんどだ。
そしてそれは、珍しいことでもなんでもないのだ。
「…そうなんだ」
「うん、ごめんね」
「いやいや!名前ちゃんは悪くないよ!俺がわがまま言っただけだから!」
ちぎれんばかりの勢いで首を横に振る及川くんにお、おう…と謎の返事をしてしまった。
「じゃあ…いつもひとりなの?」
「うん」
「………」
黙ってしまった及川くんの考えは、なんとなく察することが出来た。
かわいそうな子だとか、寂しい子だとか、そういった類のものだろう。
「…俺、今日は帰るよ」
「うん、わかった」
立ち上がって身支度をする及川くんにならい、私も立ち上がった。いつの間にか、及川くんのグラスはからになっていた。
ドアを開けて、玄関まで向かう。
「おじゃましました。コーヒーとクッキーごちそうさま」
「うん」
「…名前ちゃん」
「うん?」
「また来ても…いい?」
「うん、徹くんがいいなら」
「…ありがとう!」
綺麗な白い歯を見せてにかっと笑った及川くんに、何故かいやにどきりとした。胸のあたりで両手を握りしめる。
「また明日」
「うん、また明日ね」
手を振る及川くんに、私も手を振り返した。
及川くんはそのまま背を向けて、玄関を開けて外へ消えていった。
しん、と静かになる。いつもの静寂が訪れた。
…少し、寂しいと思うなんて。私、どうしちゃったんだろう。