水塊に溺れる

□ラブラドライトを君へ
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新しい彼女ができる度に、岩ちゃんは俺の頭を叩いた。痛がる俺を知らぬふりして口を開いて出るのは、いつもの台詞。

"本当にそいつのことが好きなのか"

何を、言っているんだろう。好きだから付き合うんじゃないか。
そう思うのに、どの子とも長くは続かなかった。
そして皆、口を揃えてこう言った。

"及川くんは私のことを見てない"

そう言われる度、鈍器で後頭部を殴られたかのように鈍い痛みが走った。

そしてぐるぐると考える度に思い浮かぶのは、ひとりの女の子の姿。


────夏。
その日はうだるような苛烈な暑さだった。蒸し暑い体育館にはいられなくて、休憩中自販機の影に隠れて休んでいた。
俺は、焦っていた。先輩たちを差し置いて、正セッターに選ばれた。結果を出さなければ、と。
いつの日か感じた、足元が沼底に落ちていくようなどろりとした暗い気配。
息苦しいのは、それのせいなのか、夏の生ぬるい空気のせいなのか。
その区別がつかない程に、俺は憔悴していた。

「あの…」

目の前から声が聞こえた。人がいたことにまったく気付かなかった自分に驚いた。
頭にかぶっていたタオルを外しながら顔をあげると、そこにはひとりの女生徒がいた。

「これ、よかったらもらってくれませんか?」

目の前に差し出されたのは、一本のスポーツドリンク。結露がついているそれは、触らなくてもよく冷えていることがわかった。

突然のことにどう返して良いかわからず見つめていると、彼女は眉を下げながら慌てて口を動かした。

「す、すみません!私怪しい者じゃなくて…1年の苗字というものでして…!その、自販機で当たったんですけど…私、ひとつだけでいいので…」
「…優しいね」

本音が、出た。まるで水が上から下に流れるように、自然と声に出た。
女の子達に向けるいつもの笑顔で、優しい女の子は好きだよ、と茶化すつもりだったのに。
漏れ出た声は、感嘆のそれだった。

「あの…これは持論なんですけど」
「うん」
「人を優しいと感じるのは…その人の心が優しくて美しいからだと思うんです」
「!」
「だから…私が優しいんじゃなくて、あなたが優しい人なんだと思います」

顔をくしゃっとさせながら彼女…苗字さん、は笑った。
無邪気で、年相応な愛らしさに胸が締め付けられた。

「…ありがとう」

水が滴るスポーツドリンクを受け取ると、ひやりとした感触が手全体に伝わった。苗字さんはほっとした様子でゆっくりと手を離した。
かすかに互いの指先が触れた。いやにどきりとした。

聞きなれたホイッスルの音が聞こえる。
休憩終了の合図だ。いかなければ。すくっと立ち上がる。
目の前にいた苗字さんの身長は俺よりずっと小さくて、少し面食らった。

「あの…運動部の方、ですよね?」
「うん」
「がんばって、ください」
「…ありがとう!」

自分ができる最大限の笑顔を、彼女に向けた。
そのまま背を向けて走る。

さっきまでまとわりついていたどろりとしたそれは、いつの間にか無くなっていた。


────ふ、と。目を覚ました。また苗字さんのことを夢に見ていたらしい。
…昨日、また付き合っていた女の子に振られた。
学年のマドンナとして有名な、長い茶髪が美しい子だった。
ああ、また岩ちゃんに蹴られちゃう。岩ちゃんってば、俺が付き合おうが別れようが気に入らないらしい。
寝癖がついた頭を少し乱暴にかいた。

あの日触れ合った指先の熱が、いつまでも忘れられないんだ。

苦しいような、でもそれさえ心地良い甘い痺れのような気さえして。

形容しがたい気持ちに、俺はひどく戸惑うことしかできなかった。




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