水塊に溺れる

□その情恋を食す
1ページ/1ページ


「名前ちゃん、部活見に来て」

急いで帰り支度をしていると、嬉しそうに駆け寄ってくる及川くんに声をかけられた。思いもよらなかった彼の台詞に一瞬思考回路が止まった。が、すぐに何とか動かした。

「ごめんね及川くん、私部活があって…」
「文芸部でしょ」
「えっ、うん、よく知ってるね」
「そりゃもちろん、彼女のことですから」

ふふん、と得意気に鼻を鳴らした及川くんの表情はみるみるうちに眉を下げて、私の方へ身を乗り出した。

「急ぎの用事があるの?」
「うん、締め切りが近くて」

正直、修羅場っている。下校時間延長の許可も取ったし、栄養ドリンクも数本持ってきた。
授業中もアイディアを書き溜めていたくらいだし。

「…本当に駄目?」

甘える子供のような上目遣いにう、と息が詰まった。
自分は優しい人間だとは思わないけれど、懇願する他人をむげにできるほどできた人間ではない。

…前から思っていたけど、この男、自分の容貌が良いのをわかってやってる。

「ごめんね」
「…わかった、我慢するから一個お願いしていい?」
「うん?」
「毎週月曜日は…部活休んでほしいなあ、なんて」
「…月曜日?」
「うん、月曜日」

部活がオフなんだ、と照れくさそうに笑う及川くん。

「一緒に勉強したり、遊びに行ったりできるでしょ?」

なるほど、そういうことか。
ううん、と唸ってしばらく逡巡し、再び口を開く。

「修羅場ってなければ…平気かな?」
「本当に?!」

やったー!と細長くて大きな体が飛び上がってびっくりした。
ぴょんぴょん、と軽やかに飛ぶ及川くんはまるで校庭の隅にいるうさぎみたいで…正直、かわいいと思った。

「じゃあ部活行ってきます!!!」
「い、いってらっしゃい」

及川くんの声に、残っているクラスメイト達がこちらへ振り向く。
私は何もしてないけれど、恥ずかしさでじわりと顔が赤くなるのを感じた。

…及川くんのあの元気は、どこからくるのだろう?




[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ