水塊に溺れる

□約束には生温い
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「おはよう、名前ちゃん」

語尾にハートマークでもついていそうなほどの、甘ったるい及川くんの声。
こんな声で私の名前をよぶのは、この先もずっと及川くんだけだろう。
胸焼けしそうで、思わず心臓のあたりをさすった。

「おはよう、及川くん」
「…徹」
「へ?」
「名前で呼んでよ」

さっきとは打って変わって、真剣な声と表情にどきりとした。
私が知ってる及川くんというのは、全校生徒で応援に行った試合の時の姿と、クラスで男女問わず楽しげに話す姿だけだけど。
…多分、それ以外の顔もある。

「恥ずかしいよ」
「ええ〜なんで?」
「なんでって…及川くんは及川くんだから」
「やだやだ!徹ってよんで!」

両手で肩を掴まれ、ぐわんぐわんと身体を右へ左へ揺さぶられる。
激しい揺れに口から変な声が漏れ出る。なんとか口を開いて、声をあげた。

「わ、わかったよ」
「本当?!」
「ふたりきりの時は名前でよぶよ」
「ええ〜」

心底不服です、という表情に苦笑いで返す。

「ふたりきりの時は必ず名前にするから。ね?」
「…嘘じゃない?」
「うん、嘘じゃないよ」
「…わかった」
「聞き分けのいい及川くん、素敵だね」
「まあね!」

俺は我慢のできる男ですから、と胸をはる及川くんがおもしろくて笑ってしまった。

ふ、と気が付くと。さっきまでいたはずのもうひとつの及川くんの顔は、いつの間にかなくなっていた。




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