フラジール

□きみに侵食されていく
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「いい天気だねぇ」

ぐんと伸びをする。淡い潮風の香りに目を細めた。遠くで聞こえる海水浴客の喧騒が心地良い。

「海が好きなんですか?」
「うん、好き」

岸神の問いかけに深く頷く。久しぶりに心から笑った気がした。

「このままどこか…優しいところへ、行ける気がするから」

はっ、とした。誰かに呼ばれた、ような、そんな気がした。

スカートをたくし上げてざぶざぶと海の中へ入っていく。掻き立てられるように足を進めていく。はあ、はあ、と息を乱しながらも進む、進む。

スカートが濡れようかというその時、とても強い力で後ろへ引かれた。そこには珍しく取り乱す岸神くんがいて目を見開く。彼のたくしあげたズボンの裾は、すでに海水で濡れていた。

「ど、どうしたんです…いきなり」
「還る…」
「…?」
「海に…還ることができる気がしたから」

驚いたような、焦っているような、憐れむような。そんなものがないまぜになった濃藍の瞳は、揺れていた。

「…人魚姫みたいに、泡になって海に還ると言うんですか」
「人魚姫…」

思わず吹き出した。あはは、と声を上げて笑う。

「私はお姫様なんかじゃあないよ」

今度は岸神くんが目を見開いた。唇を噛むような仕草の後、勢いよく振り返って後ろ手に私を陸の方へと引き戻していく。抵抗はしなかった。もう還るかもしれないという気持ちは、消え失せていたから。

ふたりで砂浜へと戻った。濡れた足に砂がくっついてくるが気にせず歩く。岸神くんの白い足にも、たくさんの砂利がついていた。
たくしあげていたスカートをおろす。思ったよりも濡れていなくて、拍子抜けしてしまった。
岸神くんに名前を呼ばれた。
いつもの苗字…じゃない、と思った瞬間抱き寄せられた。私の肩に彼の顔が深く埋められる。

「私に触っちゃ駄目だよ」

いつの日か彼に口にした言葉を再びつむぐ。胸板を押そうとした途端、より強く抱きしめられた。身動きがとれなくなる。

「あなたは汚くなんかない、穢れてもいない」
「違う」
「どうしても…穢れていると言うんですか」
「うん」
「…それでも、僕はあなたに…触れていたい」

ふと、彼の鈍色の薄い膜が無いことに気が付いた。
…嗚呼、そうか。もうずっと、私の前では彼の膜は無かったんだ。
身体から力が抜け、だらりと腕をたれた。

岸神くんから伝わる早鐘を打つ鼓動だけが、私の中を侵食するようにじわりと広がっていった。


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