フラジール

□絶望の傍らで
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「ボク、苗字さんのことがずっと気になってたんです」

思いもよらなかった言葉に私の中の時が止まった。今日の天気は麗らかですね、なんて紡がれそうな軽やかな口調。
突然呼び出されたことにも驚いたのに、更にその上をゆく驚嘆があるなんて誰が思っただろう。
目の前の綺麗な顔の男は、笑っていた。
その様子に寒気すらする。恐る恐る口を開いた。

「えっと…それは…その、どういう…」
「あなたと交際したいということです」

にこにこと愛らしく微笑む岸神くんにぐらりと眩暈がした。
…罰ゲームか何かなのか?いや、でも岸神くんはそういことをしそうな人間達とは一番距離を置いてそうに見えるし…。偏頭痛特有の重い痛みを誤魔化すように顔をしかめた。

「お返事は今ここで頂きたいんですが」
「えっ…」
「お付き合いしてる方がいらっしゃるんですか?」
「ううん…いないけど」

困った顔をしても、相変わらず彼は美しく笑っている。このままではどうにも立ち行かない。
この前の一件で見た彼の双眸を今でも思い出す。何もかも見透かしていそうなのに、どうして私から答えを聞き出そうとするんだろう。

浅く息を繰り返した。灰色の霞を喉元まで引き上げる。

「私はね、自分のことが大嫌いなの」

岸神くんのつま先を見つめる。白く磨かれた彼の上履きもまた、美しかった。

「私を好きになる人は、信用できない」

だから、ごめんなさい。
しん、と静まり返る。言った、きちんと言えた。岸神くんは汚い私を見た。彼は私に背を向けて去っていくだろう。そしてもう二度と、私には近付かない。
それでいい、それでいいんだ。

「信用してもらわなくてもかまいません」

つま先が近くなったかと思うと、肩に手を置いて引き寄せられた。思わず顔を上げる。私の目の前には美しいかんばせ。
岸神くんの威圧的な雰囲気に、息を飲む。

「ボクはただ、あなたのことが愛しい」

岸神くんの白い手が私の頬をすうっと撫でた。ぞわりと背中の上を何かが駆け抜けてゆく。
あの時と同じように、身震いした。

「あなたのそばにいさせてください」
「………」
「ボクと付き合ってもらえますか?」

私を深く包み込む重く芳しい圧力に、頷くほか無かった。すると彼の濃藍の目は、慈しむようにゆっくりと細められた。

「好きです」

その言葉に嘘偽りが感じられなかったなんて…私の頭は、おかしくなってしまったんだろう。


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