創作 弐
□相対関係
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「戻りました!」
とある日の夕景。
屋敷の玄関先に元気な声が響いた。
「おかえりなさい、つららちゃん」
「早かったわね」
炊事場に駆け込んだつららに、膳を運んでいた若菜と毛倡妓が口々に言う。
「ゆっくりしてきてもよかったのよ?」
「ありがとうございます。でも、充分頂きましたから!」
せっかく出掛けたんだから・・・、という若菜の言葉につららは首を横に振ると壁に掛かった前垂れを締めた。
「今、準備しますね」
「えぇ、お願い」
「つらら、これから手伝ってくれる?」
「分かったわ」
今日も奴良家の炊事場は、穏やかな雰囲気に包まれている。
「つらら」
「はい?」
夜霧が見渡した庭を包む。
部屋で側近の酌により酒を呑んでいたリクオは、思いついたように声をあげた。
徳利を手にしたつららはそれを盆の上に乗せると、明かり取りから月を眺めていた主に膝を向ける。
「どうされました?」
呼んだわりにはなかなか口を開かないリクオに、つららは不思議そうに小首を傾げた。
「リクオ様?」
「今日は、出掛けてたのか?」
リクオは視線を月からつららへと移す。
問い聞くその表情は至極優しげで、つららは僅かな逡巡の後にあぁ、と短く声を漏らした。
「錦鯉に行っていたんです。来週から新しい市が始まるので、この間のような騒動が起きぬよう、私もきちんと把握をしておかなければと思いまして」
そう言うつららの顔はもう、立派な側近頭のそれだった。
「そうかい」
リクオは穏やかに笑む。
つららもそれにつられて嬉しそうに微笑んだ。
「頑張るのはいいが、無茶はするなよ?」
「リクオ様?」
「怪我、してる」
そう呟いたかと思うと、リクオは自分を見つめるつららの手を彼女の膝の上からスッと取った。
「リクオ様・・・?」
「ほら」
リクオの視線の先。
そこには確かに、小さいけれど真新しい切り傷があった。
「あ・・・」
思い当たる節があるのか、傷を見つけた瞬間つららは気不味そうに顔を逸らす。
「自分のことを蔑ろにするのは感心しねぇな、つらら」
「な、蔑ろだなんて・・・」
「責めてるわけじゃねぇ、気をつけろってことだ」
そう言って項垂れるつららの頭を優しく撫ぜると、リクオは不意に立ち上がった。
それに慌て、つららは急いで膝を立てる。
「リクオ様ッ、お酒は―――」
「それの手当てが終わってからだ。お前はそこにいろ」
つららのあまりの慌てようにリクオは苦笑すると、さっさと部屋を出ていってしまった。
「リクオ様・・・」
一人部屋に残されたつららは、中途半端に立ち上がった膝を折るとぺたりと畳に座り込んだ。
冷たい指先が手首の傷口を滑った。
「ハッ、・・・!」
辺りを霧のような無数の氷塊が覆う。
つららは着物の袖を翻し腕を高く振るうと、地に着いた足を軸に身体を反転させた。
が。
「アッ!」
地面に落ちた氷塊に足を取られた。
腕を奮った反動は止まらず、身体はそのまま流れに乗る。
「・・・ッ、」
どうにか体勢を立て直そうとつららは四方に腕を伸ばすが、遮るものない場所をと選んだここにそれを受け止めるものなどあるはずがなかった。
あるのは、眼前に迫る大木だけ・・・。
「・・・ッ、!!」
背中から、強く身体を打ち付ける。
刹那、背中が弓形に反り、恐ろしいほどの圧迫感が肺を襲った。
「ハァッ、・・・ハッ、ハッ」
つららはずるずると幹に沿って身体を落とすと、何度も荒い呼吸を繰り返した。
「ハッ・・・」
ここは以前、陰陽師である花開院ゆらが修行に使っていた場所に程近い空き地。
雑草の生い茂った荒れ地で世辞にも足場がよいとは言えなかったが、見渡す限りの草原や廃墟の残骸のようなものはいい目隠しになり修行には誂え向きだった。
つららは立ち上がると、間髪入れずに口上のための唇を開いた。
「我が身にまといし―――ッ、!」
だがそこまで紡いで、つららは不意に口を噤んだ。
咄嗟に視線を巡らせ、鋭い眼光で辺りを見遣る。
「・・・」
一体。
酷く薄く判別は不可能だが、確かに人―――いや、妖の気が伝わってくる。
「・・・出てきたらどう?相手になるわよ」
つららは静かに言った。
「・・・」
だが相手に動く気配はない。
傍観を気取るつもりか。
「誰かは知らないけど、生憎このまま見逃すつもりはないわよ」
つららは口元を歪めて笑んだ。
途端、周囲を凄まじい冷気が覆う。
掲げたのは、氷塊の刃。
「さぁ、姿を見せなさい。然も無いと―――」
「お前に攻撃されても、手出しはできねぇな・・・つらら」
「ッ、―――」
突然の声につららは言葉を失った。
ゆらりと、何もないはずのそこから姿を現したのは主。
リクオだったのだ。
「リ、リクオ様ッ!?」
つららは素頓狂な声をあげ後退る。
氷の薙刀も思わず手から落ちた。
「驚かせちまったか?」
リクオは微かに笑いながら一歩一歩とつららに近づいた。
「お、驚きますッ!なぜ・・・リクオ様がここに・・・」
「なに、少しばかり気になってな」
つららの問い掛けに、リクオは小さく息を吐いて苦笑した。