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□初花
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「お母様!」
弾んだ声音とは裏腹に、敷石を踏む足元は酷く慎重で雪麗はそんな娘の様子に柔らかく相好を崩した。
「久しぶり。どう?体調は」
「はい、悪阻も大分落ち着いて・・・」
そう言ってつららは愛しげに視線を落とし、微かに膨らみをもった腹をゆっくりと撫でる。
「お久しぶりです、雪麗さん」
そんな折、不意に言葉を発したのはつららの脇に立ったリクオだった。
「久しぶりだね、三代目」
じゃり、と下駄が鳴る。
雪麗は一歩前へと進み出て、娘婿に喜色を向けた。
奴良組三代目―――奴良リクオとその側近―――雪女のつららが祝言をあげて早二年。
その吉報を今か今かと待ち望んでいた組員達のもとへ、ついに奥方懐妊の知らせが届いたのはつい二週間ほど前のことだった。
身重の身体を慮りながらも、浮足立った様を隠せぬ本家。
それは報を受けた遠野に住むつららの母親―――雪麗にとっても例外ではなく、文が届くなり彼女は飛び出すようにしてここ―――奴良組本家へとやって来たのだった。
「改めておめでとう。つららも、リクオも」
婚儀の際、夫婦という関係にさえ初々しさを残す彼らに冗談交じりに言った“孫の顔が楽しみだ”という言葉も今は酷く懐かしい。
「ありがとうございます・・・」
「この子も、彼女も。ボクが必ず守ります」
気恥ずかしそうに瞳を細めるつららの言葉を引き継ぐように、リクオは真っ直ぐに雪麗を見て言った。
「よろしくね」
「はい」
「―――お母様、どうぞ。立ち話もなんですから」
すっかり奥方としての振る舞いが板に付いた娘の姿に、雪麗はリクオを見遣りクスッと笑う。
「つらら、ゆっくりでいいから・・・足元、気をつけてね」
「はい、リクオ様」
そして言葉だけでなく、しっかりとその手をつららの腰に回すリクオ。
仲睦まじい二人の様子は、雪麗の胸に言い表しようのない感情を生んだのだった。
「あら。こんにちは、雪麗さん」
「久しぶりね、若菜さん」
仏間での祈祷を済ませた雪麗は客間で茶を受ける隙もなく、挨拶のために顔を出した炊事場で夕餉の支度をしていた若菜と早々に賑やかな会話を繰り広げていた。
「色々世話になっているみたいで―――」
「本当に、そんなことないのよ?」
頭を下げる雪麗に、若菜はふるふると首を横に振る。
「つららちゃんったら、なんでも一人で熟しちゃうから・・・むしろもっと頼ってほしいくらいだわ」
そう零す若菜の台詞に、娘の様子が容易に想像できた雪麗は苦笑した。
若くして奴良組へと入った彼女は、同時に側近としての弁えを心得ねばならなかった。
今更になって明確な線引きがが必要となっては、彼女も頭では理解していても実際に行動に移すとなるとなかなか難しいものがあるのだろう。
「まぁ特別遠慮しているってわけでもないと思うんだけど・・・」
「そうなのよねぇ・・・」
頬に手を当て頷く若菜も、分かってはいるらしい。
けれど同じ屋根の下、義理とはいえ母と娘の関係で繋がる彼女にもっと甘えてほしいという気持ちが先行するのも無理はない。
「さて、そろそろ夕食にしましょうか」
「手伝うわ」
互いに招致の壁を越え、笑みを交わし合う。
今宵は穏やかな時が流れそうだと、言葉にしない二人の胸中がそう語り合った。
「雪麗・・・」
「―――え・・・ぬらりひょん?」
夕月夜の美しさそのままに煌々と輝き続けた月をぽっかりと空に浮かべながら、そんな闇夜を彩ったのは酷く懐かしい声音だった。
「どうして・・・」
「・・・それはワシの台詞じゃ。久方ぶり―――と言うのも久しく感じるな、・・・雪麗」
月明かりを受けた長い髪を風が掠う。
昔と変わらぬ姿のままの彼が、そこにいた。
「・・・今夜は帰らないって、・・・聞いてたのよ」
うっすらと、辺りを包む夜霧に消えてしまうような白さの指先で雪麗は乱暴に濡羽の髪を掻き上げた。
揺れる毛先は木々を揺らす夜風の所為か、将又震える指先か・・・。
「・・・それじゃあ大将も戻られたことだし、私はそろそろ暇しようかしら」
そう言って、雪麗はゆっくりと腰を上げる。
「泊まっていかぬのか?」
「・・・え?」
「せっかくの機会じゃ。宴は若いモンに任せて・・・一杯、やらぬか?」
悪戯に上がる口角。
ひらひらと、傾けられた徳利。
いったいどこから持ってきたのか・・・。
「・・・仕方ないわね。一杯だけよ?」
幾年ぶりの二人きりの空間は、酷く心地が良かった。