ForestDrop文庫

□オレンジ色の海〜彩加の家出〜(紅の流星第三部作)
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第1話『さよなら隆志』前編
11月下旬のある日、綾部彩加は1人で東京駅のホームにいた。その手には衣類などを入れたボストンバッグ、財布などの貴重品類とキップを入れた小さいバッグを持っていた。列車が来る前のホームで、彩加は少し前のことを思い出していた。
「隆志と莉奈のバカ…」
彩加は会社を解雇され、退職金などを受け取ると自分が住んでいるマンションへと足早に帰ってきていた。帰って来てから書類などを揃えてハローワークへ行こうと考えていたのだ。玄関に隆志の靴と見慣れぬブーツがあり、怪しい気配がしてリビングへ行ってみると、そこに隆志と莉奈が一緒にソファーに座ってテレビゲームをやっていたのだった。普段であれば大学とかに行っているはずなのに、友達を連れてきて悠々とテレビゲームをしている。それは『出来るだけ親には迷惑をかけたくない』という一心で、大学や専門学校への進学を諦めて就職の道を選び、今まで身を粉にして働いてきた彩加にとっては許せない光景だった。隆志自身も一応アルバイトはしているものの、ほとんどは親が汗水たらして働いて稼いだ金銭で仕送りなどを受けていた。おまけに学費も払ってもらって学校へ行かせてもらっているのに、それをなんとも思わずに学校を平気で休んだ隆志と、それに便乗した莉奈の事、そして何より同居のときに約束したことを平気で破られたことが彩加には許すことが出来なかった。彩加は自らの寝室へ入り、ボストンバッグと衣類を出して、家を出る支度をはじめた。何かの物音がするのに気づいた2人は、その方へ行ってみると、寝室でボストンバッグに衣類などを入れて荷物をまとめている彩加をみつけた。彩加が帰ってきたことも分からなかった2人は動揺を隠せなかった。
「彩加、何処行くんだ。」
「隆志には関係ない。あんたは莉奈と一緒にいればいいじゃない。」
彩加が発したその言葉は怒りに満ちていた。その怒りの意味を隆志は理解できなかった。
「何が関係ないんだよ。俺のどこが悪いのかはっきり言えって。」
「何処が悪いかですって?それはあなたが自分の頭で考えなさいよ。今は話すことはなんて何もない。とにかく私はここから出て行くから!」
「ちょっと待てよ!」
彩加は玄関に向かって走り出そうとすると、隆志が腕を掴んでゆく手を阻んだ。ついに彩加の怒りは頂点に達し、阻む手を振りほどくと隆志の頬を力いっぱい殴るとマンションを飛び出したのだ。後から隆志が追いかけてくる声が聞こえてきたが構わず無視し、すぐに来たタクシーに乗って近くの駅まで向かった。そのタクシーの中で彩加は小さく呟いた。
(私が隆志を好きだったのは、ただ一方的だっただけなの?)
タクシーの運転手が心配そうに声をかけ、買ったばかりだったペットボトルのお茶を差し出しても彩加は受け取れなかった。とにかく隆志から逃げたかった彩加は、一度は実家に帰ろうとした。だが、それでは隆志は連れ戻しにきっと来るだろう。今は絶対に顔を合わせたくない。そう思った彼女は遠くにある沼津の町で、みかん農家をしている親戚の家に身を寄せることにしたのだった。駅でタクシーを降りると、東京駅までのキップを買い、電車に乗った。一方の隆志は、彩加に殴られた頬を押さえながら追いかけはしたものの、彼女が乗ったタクシーが走り去っていくのをただ見送るほかなかった。追いついたときには既にタクシーが走り出していたため止めることも出来なかったのだ。そのうちに後を追いかけてきた莉奈が水で塗らしたタオルを隆志に手渡した。それを頬に当てて何とか痛みを和らげようとしたが、なかなか痛みは治まらなかった。隆志は彩加に対する不平不満をこぼした。
「ったく、急に殴ることないだろう…。」
「…それは自業自得だよきっと。」
莉奈が静かに言った。それだけ酷いことを彩加に対してやってしまったのだと思ったのだ。隆志は納得できなかったが、それでも彩加は一体何処へ行ったのだろうかと心配になった。
「俺が悪かったよ。頼むから戻ってきてくれよ彩加…。」
隆志は何度も電話をかけたが通じなかった。呼び出しはするのだが、肝心の彩加が電話に出ないのだ。莉奈は他の友人に電話をかけて、彩加を探してもらえるように頼んだ。
「隆志はさ、どうして彩加さんが好きで一緒に住んでたの?」
「今になっては、なぜ一緒に住み始めたのかは分からないな。ヒモでもなさそうだし…。」
「何はどうであれ、とにかく彩加さんを探さないと。最悪の事態にならないためにも。」
莉奈は、とにかく彩加を探さなければならないと思い、隆志の腕を引っ張ると彩加を探し始めた。しかし、彩加の乗ったタクシーがどこへ行ったのかさえも分からなかった。その頃、彩加が東京駅で列車の到着を待っていると、列車の入線案内放送が流れてきた。
『まもなく、10番線に特急東海3号静岡行が到着いたします。』
自由席車両の乗車位置に並んで待っていると、下り方から特急東海号が入線してきた。目的地である三島駅までの乗車券と自由席特急券を買い、駅の売店でパンなどを買っておいた。親戚の家には連絡を取ってあるので、後は自分が行けばいい。
「母さんには、連絡しておこうかな」
東海号の車内へ入って、座席に荷物を置き、一旦ホームに降りると携帯電話を出し、埼玉にある実家へと電話をかけた。電話から聞こえてきたのはやさしい母の声だった。
『もしもし、綾部です。』
「もしもし、母さん?」
『彩加、どうしたの?急に電話かけてきて?』
「会社、クビになったの。」
『えっ?どうして??』
「会社の業績が不信で急に解雇されちゃった。それに隆志は浮気しているし、もう…。」
『…深刻そうね。でも、これからどうするの?』
「沼津の叔母さんの家にこれから行く。向こうには連絡してあるから。」
『…そう。一応聞くけど、もし友達とかが電話してきたら、伝えたほうがいい?』
「父さんには教えておいて欲しいけど、隆志と莉奈には絶対に伝えないでね。」
『わかった。あなたが気が向いたら帰っていらっしゃい。』
電話を切ると、ふと涙が溢れていることに気づいた。電話を通して聞いた母の優しい声と、会社と彼氏への怒りがぶつかり合い、彼女の心を揺さぶっていた。
「東京には、もう居場所なんてないのかな…。」
再び車内へと入る前にふと空を見上げると、雲に隠れている青空が少し見えた。そして列車の発車を告げるアナウンスがなったことに気づいて、急いで乗り込んだ。すっかり失意の中にいた彩加は座席の背もたれにもたれかかり、外の景色をボーっと見ていた。東京駅に滑り込んできた普通電車や同じような特急車両を見ているうちに発車時刻となり、東海号の発車アナウンスが駅のベル音とともに流れてきた。
『10番線から特急東海3号静岡行きが発車いたします。』
ドアが閉まる音が聞こえると、彩加を乗せた特急東海号は滑るように東京駅を発車した。彩加は景色を見ながらパンを食べ、流し込むようにカフェオレを飲んだ。しかし、好んで買ったパンなのに食べても味が分からず、いつもは甘い風味のするカフェオレにいたっては後味の悪い苦ささえした。窓の外を見ると市街地が流れるように過ぎていくのが見えた。車内の揺れがゆりかごのように心地よくなり、彩加は目を瞑った。あまりの疲れに、電車の音も妨害にならなかった。その頃、沼津の内野家では大騒ぎになっていた。
「急に彩加ちゃんから電話が来るとは思わなかったわ。急いで支度しないと。」
彩加の叔母である内野芳江と娘の理恵が大慌てで布団を出すなどの支度をしていた。
「彩加姉さん、どうして急に来ることになったんだろ。」
理恵が芳江に聞いた。ちょうど手を休めた芳江は両手を組んで考え込んだ。
「私には分からないよ。多分きっと、彩加姉さんだって話したがらないよ。」
みかんの収穫時期になると、彩加はよく休日に収穫作業の手伝いに来ていた。仕事などがなければ金曜日の夕方に来て、泊まりこんで作業を手伝い、日曜日の午後に東京へ帰ることも度々あった。彩加が来てくれることになって内心は嬉しいものの、少し妙な感じもしていた。平日の最中に彼女が来ることは、お盆などでもない限りなかったのだ。座敷の掃除が終わることになって、三島市の方に働きに出ている息子の慎一が帰ってきた。
「ただいま。」
「お帰り。今日の何時になるか分からないけど、彩加姉さんを長岡駅まで迎えに行って。」
「わかった。でも、なぜ急に彩加姉さんが家に来るって電話してきたんかな」
「そこまでわかれば、心的苦労はないよ。とにかくお願いよ、慎一。」
そういうと、芳江は再び掃除機を動かし始めた。
特急東海号が三島駅に到着したのは夕方になってからだった。東京から二時間あまりの道程、彩加は列車に揺られながら函南駅付近まで寝ていた。目が覚めると既に三島到着を告げる車内放送が流れていた。
「降りなくちゃ…もう、何か疲れた。」
荷物を持って東海号から降りると、外気の寒さが身にしみた。
「寒い。自販機に温かい飲み物ないかな…。」
近くの自動販売機まで歩き出すと東海号のドアが閉まり、高らかな音を奏でて夜の闇の中へ消えていった。駅を出てゆく東海号の後風を受けつつ歩き、近くの自動販売機で温かいコーヒーを買って飲んだ彩加は、南口へと歩き出した。親戚の人が迎えに来てくれると言っていたのは伊豆箱根鉄道の伊豆長岡駅であるが、そこまでのキップを買っていなかったため、一度南口から出て伊豆箱根鉄道の駅まで行き、新たに切符を買う必要があった。
「窓口で連絡切符買えばよかったな。」
キップを買う前に内野家へと電話をかけて、次の修善寺行の電車の時刻を確認して伝えると電話を切った。伊豆長岡までの切符を買って、駅のホームへと向かう。キップを買う前に1本前の電車が発車して行ったため、時間には余裕があった。一番後ろのサイドシートに荷物を置いて座ると、携帯電話の画面を見ていた。着信履歴があるのを確認したが、それはほとんど隆志と莉奈からでウンザリし、携帯をバッグの中へ入れてしまった。そして、静かに眠ってしまった。家を出てから特急東海号に乗るまでで疲れてしまったのだった。
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