novels

□枯れた薔薇
1ページ/1ページ



──いつの日からか、彼は決して彼女の側を離れようとはしなくなった。同じ床で共に朝を迎え、同じものを食べ、かつてはその後彼女の部屋に施錠をしていずこへと出掛けて行ったはずだったのに、それすらも無くなり。

共に過ごす時間が増えた。彼は片時も彼女を放さない。いつの日か彼が摘んできた薔薇の花は、透明の花瓶の中、とうに水を吸い尽くして乾涸び涸れ果てている。

彼女は乾燥したワインレッドの花弁を指に挟み、睫毛をそっと伏せる。腹に回る力強い手はまるで鎖のように、びくともしない。



「──あかね。今、何考えてる?」



耳元で彼が囁く。あかねは小さく首を横に振った。薔薇の花弁を挟んだ指を後ろから片手で包み込み、自分の口元に運ぶと、その指先に彼はそっと口付ける。



「……わからない。もう、考えるのに疲れたから」



手を強く握り締められ、乾いた花びらはくるくると円を描きながら白いシーツに落ちた。彼女の顎を掴みんで後ろを向かせ、彼は啄ばむように桃色の唇に口づける。──あかね、と。掠れた声で彼が呼んだ。



「──おまえは、どこにいる?」

「…ここにいるじゃない」

「あかね、」



瞬きを忘れた哀しい眼がじっと、離れた彼の唇を見詰める。視線に耐えきれなくなったかのように、彼は彼女の剥き出しの肩を寄せて強く抱いた。彼女はゆっくりと、目を閉じる。



「俺、おまえがどこかに行ってしまうんじゃないかと思うと、怖い」

「──…乱馬」

「頼むよ、あかね……ここにいてくれ」



──少しだけ。同じ時間を過ごす時間が増えて、分かってきたことがある。彼女はぎこちなく、手を彼の背に回した。

きっと自分よりもずっと、彼は怖がりだ。耳を彼女の剥き出しの胸元に当て心音を聴きながら、ゆっくりと長い溜息を吐く彼を見下ろして、彼女は背に回した手で僅かにその広い背を撫ぜる。

今、彼女が何を考え、何を思っているか。彼はいつもそれを知りたがる。執拗なまでのその問いかけの意味を彼女が漸く理解したのは、つい最近になってからのことだ。



きっと彼女の心の在り処を見失いたくなくて、彼は立ち竦んでいるのだろう。身を縛り付けても知ることのできない、その場所。自らの眼に届くところにはない彼女の心が、何処にあるのかを知りたくて。

白く水桃のように瑞々しい柔らかな胸に唇を寄せて、彼は僅かに歯を立てる。ポツリと残された痕に口付けて、彼は薄っすらと微笑んだ。



「今度、新しい薔薇、摘みに行こうか。一緒に」



笑顔は作れなかった。上目づかいで微笑む彼の眼には、もう歪んだ愛しか映っていない。彼女が逃げようと足掻くことを止めた日から、彼はよく笑うようになった。幸福だと自分に無理に言い聞かせているような、強いられたような笑みを。



「──乱馬」

「どうした?」

「…ううん。何でもないの」



──かわいそう。あなたは、かわいそうな人ね。心の中で囁いて、彼女はそっと彼の頭に唇を落とす。

彼女の抱いていた恐れはもう、とうに麻痺してしまった。彼女が恐れることを止めた日から、彼もまた手荒に彼女を蹂躙するのを止めた。

一見すると穏やかな、けれどまたいつか崩れてしまうようなアンバランスな日々を延々と引き摺って、二人は時を刻んでいく。



「──側に居てくれるよな、あかね」



乾涸びた薔薇の花からまた一片(ひとひら)、花弁が落ちる。──自分が涸れる時、彼はどうなるのだろう。繋がれた手を微かに震えるもう片方の掌で包み込んで、彼女は小さく頷いた。






end.

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ