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□summer
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夏が来る。

まだ耳には聞こえないはずの蝉しぐれが、見えないはずの青空に広がる入道雲が、あの日と同じ場所を、あの日と同じ空を、夏色に染め上げる。

あれから十度目の、夏が来る。

風にざわめく森が、わたしの背中を押しては、さざめく心を急き立てる。





──さあ、早く。

早く、その先へお行き。

「彼」が待っているよ。





太陽の光を受けて紫色の髪結い紐がきらりと煌めく。

大切に掌におさまるそれを見下ろして、わたしは深く深く、息を吸った。

あと一日で、わたしは二十になる。

そして明日を迎えてしまえば、夏も、風も、森も、何もかも、もう二度と、わたしの背を押してはくれないだろう。

そんな予感がしていた。





ひゅうううう、と細やかな音を立てて、目の前のトンネルに風が吸い込まれてゆく。

風に靡いて遊ぶ髪を、わたしは、てのひらに仕舞っておいた紫色の髪結い紐で、さっと束ねた。

後ろに一つに括り終えた時には、風は止み、森は静まり返り、全てが息を潜めてわたしの決意を待った。





「待ってくれてる、かな」





口にした問い掛けに答えるかのように、小さな風が、ポニーテールをふわりと揺らしていった。

トンネルが、風も無いのに、まるで唸っているかのような声を上げている。

その声をわたしは知っている。

かつてここに「導き出された」時にも、同じ声を耳にした。





トンネルの向こう側が、わたしを呼んでいる。

与えられた最後のチャンスを、夏が謳う。

苔生した達磨石から腰を上げて、わたしはまた大きく、息を吸った。





「ハクー!」





トンネルの向こう側に向かって呼び掛けた声は、暗いトンネルの中を反芻して掻き消されてゆく。

その名を呼んだ瞬間に、止んだ風がざわりと音を立てて騒ぎ出した。

風にせかされるように、けれどもしっかりと自分自身の足で、一歩一歩と、トンネルへと踏み出してゆく。





「いま、会いに行くからね!」





わたしはここに来る前から決めていた。

もう二度と振り返ることはしない。

何も手に持たず、ただ十年の時の流れの中でも遂に流されることのなかった記憶と、想いだけを抱いて、ここへ来た。





夏が来るたびに、背を押され。

夏が来るたびに、心を急かされ。

けれどそのたびにわたしは、ともすればわたしを再びトンネルの向こうへと誘ってしまいそうな夏に、言い聞かせてきた。

──彼はきっと、逢いに来てくれる。

だからわたしは、ここで彼を待っているんだ、と。





けれどそうして幾つの夏を越えても、トンネルは愛しい存在の姿を垣間見せてはくれなかった。

夏が来るたびに、蝉しぐれの中を駆け抜けて、入道雲を見上げながら、苔生した達磨石に座って、彼を待った。

トンネルはわたしを呼びこそすれど、彼はわたしを呼んではくれない。

そしてある夏、わたしは気が付いたのだった。

彼は来てくれない、のではない。

きっと、来られない、のだと。





トンネルが呼ぶのはきっと、わたしを呼ぶことを躊躇う彼の、代わりをしてくれているから。

だからわたしは、悩んで、悩んで、そのままふたつの夏を越えた。

どちらの世界を選ぶのか。

居るべき世界と、居るべきでない世界。

彼の居る世界と、彼の居ない世界。





大人になると同時にきっと消えてしまうトンネル。

もうきっと、二度と、同じ夏は迎えられない。

だからわたしは何も持たずに、家を飛び出した。

本当はきっと、あの十の歳の夏から、そうなることに決まっていたのだと思った。

あるいはあの日の川で溺れた、あの瞬間から。





──さあ、早く。

早く、その先へお行き。

「彼」が待っているよ。





真っ暗のトンネルに向かって、駆け出す。

遠い昔に親の腕にしがみ付いていた子供は、もう居ない。

意志を持った足音だけが、響き渡る。

奥へ進めば進むほどに、鼓動は高まってゆく。





「─…千、尋…?」





トンネルを抜けても、あの森と同じ蝉しぐれと、入道雲が、わたしを待っていた。

待ち侘びて焦がれ尽くした愛しい存在の、驚きに立ち竦んだ姿が、涙で揺れてよく見えない。





「…逢いに来ちゃった」





翡翠の色をしたビー玉に似た眼から零れ落ちた一滴と、紫色の髪結い紐の糸が、入道雲の合間から差し込んだ太陽の光を浴びて、同時に煌めいた。





「泣かないでよ、ハク。ハクの喜んだ顔が観たいのに!」

「千尋…、千尋…!本当に、千尋なんだね……!?」





包み込まれた真っ白の衣の袖からは、涙が止まらなくなるほどに懐かしい、涼やかな夏の香りがした。





これからは、ずっと一緒に、同じ夏を迎えよう。

蝉しぐれに、入道雲。

煌めく涙と、紫色の髪結い紐。

変わらない夏が、きっと、何度でも、ふたりを待っているから。

夏がわたしたちを呼んでいる。

──今年も、夏が来た。









end.


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久石譲さんの「summer」をイメージしました。

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