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□silhouette
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「ずっと側に居てほしい」


あの日の言葉を信じて同じ時間を分け合ってきた日々は、眩暈がしそうなほどの幸福に満たされていた。
同じ場所で同じ気持ちを持った二人が同じ瞬間を生きていくって、なんて素敵なんだろう。
私はその幸福に酔った。
世界中の誰よりも光差す場所に居るのだと思えた。









コーヒーを淹れていると、後ろから手が伸びてきて肩に腕が回された。
後ろから香る風呂上がりの水と石鹸の香りを吸い込みながら少しだけ首を回すと、少し湿っぽい唇が頬に押し当てられる。


「冷たいですよ、秋山さん」
「ごめん。上がりたてで髪、乾かしてないから」


ポタポタと背中に落ちる雫の感触がくすぐったくて身を捩ると、微かな空気の揺れで彼が微笑んだことが分かった。


「コーヒー淹れてたの?俺にも一口ちょうだい」


身体越しに伸びてきた手はそのままコーヒーカップの取っ手を掴み、溢さないように慎重にその口元へと運ばれてゆく。
鼻を掠めたコーヒーの香りも吸い込みながら、私はふと先程まで考えていたことの断片を口にした。


「私、すごく幸せです。秋山さんの側にいられてとっても幸せ」
「そう。それは嬉しいな」
「秋山さんも今、幸せですか?」


うん、そうだね、そう言って彼はコーヒーをテーブルに置いた後、その手で私の頭を優しく撫でた。


「幸せだよ。まるで昔に戻ったみたいで」


優しい声色で囁かれた言葉に、けれど私は幾何かの違和感を感じて幸福思考を中断させた。
昔に戻ったみたい?
昔っていつのこと?
彼の置いたコーヒーカップに伸ばした手は、不意に行き場を失くして固く握り締められた。


「…昔、って?」
「母さんが居た頃だよ。あの頃に戻れたような気がして、すごく心が落ち着いてる」


変わらない優しい声は、過去を思い起こしてかほのかに慈愛の色を増す。
彼のかけがえのない存在が居た過去。
彼が唯一幸福だった過去。

私は視線をそっと足元に落とした。
心の平静を保てることが彼の幸福なのだとしたら、確かに私は彼を幸せにしてあげられているのかもしれない。
でもそれは本当に私のおかげ?
もしかすると、私が彼の母親に「似ているから」そう錯覚しているだけなのではない?


「……直?どうした?」


黙った私に不思議そうに彼が不思議そうに問い掛けてきたけれど答えることはしなかった。










私は彼の母親以上にはなれない。
今も昔も、彼の母親以外に彼に心の平静を齎すことのできる存在はいないのだから。
私は代替でしかないのかも知れない。
その存在に近しい存在にはなり得るかもしれないけれど、取って代わることは永遠に出来ない。

そう思うと急速に酔いが醒めていくような気がした。
今まで浸ってきた温かくて甘い幸福の世界は、唐突に温度を失って欠落していく。

この人は私のことなんて見ていないのかもしれない。
ただ失ってしまった過去を取り戻したくて、幸福を錯覚しているだけ。
自分に暗示をかけて私を愛しているのだと思い込ませているだけ。
本当に欲しいものはもっと他にあった筈なのに。


「ずっと側に居てほしい」


ずっと心の支えでしかなかったその言葉は、突然に重い鎖になって私の心に巻き付いた。
どうしてその言葉の意味をもっと深く考えなかったんだろう。
その言葉は私に向けられているようであって決してそうではなかったのに。
鎖は心を否応が無しに締め付ける。

一度そのことに気が付いてしまうと、ただ全てが虚しく感じられた。
私を見てくれているようで見てくれてなどいないこの人の側に、これからも居続けるその虚無。
それが幸福の代わりに私が掴んだもの。

もう自分が光差す場所に居るなどと錯覚することなんてできない。
肩に回された腕も、頭を撫でられる感触も、耳たぶをくすぐる吐息も、全てが温度を欠いてただ通り抜けていく。

母親という光をなくした彼の側にいる私はただの影でしかない。
彼の抱く淡い光の残像に辛うじて縋り付く影の私は、永遠に光になることは出来ない。

お願い、私を見て。
その叫びは重い鎖に巻き取られた心の中でただ小さく弾けて消えた。






end.

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