Princess Mononoke

□花嫁 5
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 囲炉裏にかけた鍋が煮えている。
 丁度いい具合だが、憂いを帯びた顔をして火を見つめているアシタカは、一向に手を伸ばす気配がない。

 今日は農作業が思ったよりも長引き、帰りが遅くなってしまった。
 必然的に、夕餉をとる時間も遅くなる。
 正直、あまり食欲はないが、食べなければ身が持たなくなる。
 ゆえに支度をしたが、やはりどうしても腹が空かない。

 薪のはぜる音にそぐわぬ、重苦しい溜息が彼の口からこぼれた。
 田畑で手足を動かしている間は、考え事をせずにすむ。
 こうして家で一人になり、物思いにふける時間が訪れることを、彼は恐れていたのだった。

「サンを泣かせてしまった。──そんなつもりではなかったのに」

 アシタカは手に持っていた薪を、囲炉裏に焼【く】べてやった。
 揺らめく火の中に一瞬、サンの泣き顔が見えたような錯覚を抱く。

 ──サンは火に似ているかもしれない。

 アシタカは焦がれるような眼差しで、燃え盛る炎を見つめる。

 彼女が火であるならば、おそらく彼自身は、水だった。

 外とは隔絶されたエミシの村で、何者に脅かされることもなく、平穏な暮らしを送ってきた。
 ゆくゆくは村の長となることを期待され、民の穏やかな生活を、お前が守っていくのだと言い聞かされて育った。

 アシタカは、争いを好まない。
 彼の故郷は、激しい戦火を知らない。
 エミシの村は、清らかにたゆたう水そのものだった。

 サンは、好むとも好まざるとも、戦わねばならなかった。
 人でありながら、森と心通わせ、森を愛すがゆえに、人を憎まねばならなかった。
 人であって、もののけでない存在。
 サンにとっては、おそらく生きること自体が争いだったのだろう。
 それは、アシタカの知り得ぬ生き様だった。

 知らないからこそ、心惹かれたのだ。
 もののけ姫として生きる、あの娘に。
 あれほど美しい生き物を、彼は見たことがない。

 だが、もののけ姫に焦がれる者は、彼だけではなかった。

「森を守る新たなシシ神となることを約束しよう。──だがその代わりに、サンという娘を、私に捧げてほしいのだ」

 シシ神の神力によって、弓をくじかれた時の痛みが蘇る。

 腕よりも、胸が痛んだ。
 とても敵わないと思った。
 神と張り合うことなど、できようはずもない。

 サンは彼ではなく、森を選ぶだろう。
 森を選ぶということは、神と共に生きるということだ。
 アシタカはその選択を、サンの口から聞くことを恐れた。
 お前と共には生きられぬ、私はシシ神様の元へゆく、などと告げられることは耐え難い苦しみだった。
 ゆえに彼の方から、サンに別れを告げたのである。

 逃げているだけだった。
 そんなことは、分かっている。
 だが、他にどうしようもなかった。
 どうしようもないほど、あの娘に心惹かれていた。

 鍋が煮え立ち、今にも吹きこぼれんばかりになっている。
 物思いにふけるアシタカは気付かない。

 ──その時、何かが目にもとまらぬ速さで、彼の家の前を横切っていった。



「アシタカめ。全然気付いていないじゃないか」

 サンは思わず、土面の中で舌打ちした。
 屋根の上に仁王立ちになって、玄関口を見下ろす。中ではアシタカがまだ火を焚いているらしく、明かりが外まで漏れ出ていた。
 足を踏み入れることさえ憚られるタタラの村まで、こうしてはるばる訪ねてきたというのに。
 今朝の喧嘩別れの気まずさのせいで、素直に顔を出すことができずにいる。

「いつもはうんざりするくらい勘が冴えているのに。今日に限って、どうして気付かない!」

 短気な彼女は頭に血がのぼりやすい。
 案の定、ひやりとした夜風に当たりながらも、ふつふつと怒りが煮え立ってくる。

「だいたい、悪いのは私じゃない。いきなりあんな馬鹿なことを言い出す、アシタカが悪いんだ!」

 思わず癖がでてしまい、サンは思い切り地団太を踏んだ。
 アシタカの家は急ごしらえで造ったもので、屋根もさほど頑丈な設えではない。
 ミシミシッと何やら不吉な音がして、サンが我にかえった時にはすでに後の祭り。
 屋根はもろく崩れ落ち、彼女の身体は真っ逆さまに落下していった。

「うわあっ!」
「──何だ!?」

 家じゅうにもうもうと土埃が舞い上がる。
 しきりにむせながら、アシタカは立ち上がった。
 囲炉裏の火が消えている。ぶちまけられた鍋の中身で火傷しないように、囲炉裏の側から離れた。
 見ると天井に、大きな穴が開いているではないか。

「……何かが屋根に落ちてきたのか?」

 天変地異のたぐいか。
 やはり昨夜の出来事で、シシ神の逆鱗に触れたのだろうか?
 祟られたのかもしれない。
 アシタカは落ち着いて、事態の把握につとめようとする。

「アシタカ……」

 蚊の鳴くような声がきこえてきたのは、その時だった。
 幻聴かと思い、聞き流すアシタカだが、二度目の呼び声を無視するわけにはいかなかった。
 
「──サン?そこにいるのか?」

 半信半疑、確かめてみる。
 星明りの下で、何者かがゆらりと立ち上がるのが見えた。
 今の今まで思い詰めていた相手が、アシタカを見つめ返している。
 埃でも入ったのか、しきりに目を擦りながら。

「すまない、アシタカ。お前の家の屋根、壊してしまった……」

 なんともばつの悪そうな顔をして、言う。
 アシタカはわけがわからず、サンの顔と天井の穴とを、しばらく交互に見比べていた。



【続】

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