Princess Mononoke
□花嫁 4
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山犬はある一点を見据え、威嚇するように低い唸り声を発した。
苔生した木々の合間から、淡い光がこぼれ出ている。
何かが、近付いている違いない。
またしても森を脅かすものだろうか。──あるいは、その逆か。
いずれにせよ、じき、相見【あいまみ】えることになるだろう。
草に足跡がくっきりと残るほど、山犬は地を強く踏み締めた。
彼の方へ近付いてくる何か。それは星の光を身に纏っているかのように、ちらちらと瞬いている。
山犬はその光のまぶしさに、目を細めた。
ふと、何か小さいものが駆けてくるのが見えた。
目を凝らしてみると、それは一匹のコダマだった。
てっきり通り過ぎていくものとばかり思っていたが、コダマは山犬の前脚に、すばやく身を隠した。
近付いてくるものに恐れをなしているのか、かたかたとせわしなく震え始める。
森はみるみるうちに、まばゆいばかりの光に覆われていく。
山犬はその眼でしかと見定めようと、目を凝らした。
光の中心に、神々しいその姿があった。
鳥の姿をした、神である。
体毛は白銀に輝いている。金の嘴は磨いたようになめらかで、火のように赤い瞳はじっと山犬を見つめていた。
見る者を畏怖させる、この仰々しい出で立ち。
山犬はようやく確信を抱いた。
おそらく、この神鳥の正体は──
「この森の新たなシシ神か」
鳥は赤い瞳を輝かせながら、頷いた。
「この森は神が去って久しい。新たな神となるべく、私が遣わされたのだ」
「では、シシ神であることを明かしてみせろ」
神鳥はふと、ある一点を見つめた。
年月を経てささむけた、浅田の大木である。
山犬が検めると、はたしてその裏側に、瀕死の狐が横たわっていた。
首に矢が刺さっている。狩人に狙われたが、捕まる前に逃げたのであろう。
鳥の神は自らの翼でそっと、深手を負った狐の体を撫でた。
すると瀕死の狐は、たちどころに目を開き、息を吹き返した。
首に突き刺さっていた長い矢が、みるみるうちに砂と化して消えてゆく。
しばらくすると、狐は身を起こした。
神々しい輝きを放つ存在を、じっと見上げる。
神がふと視線をそらすと、深手を負ったことなど嘘のように、元気よく森の奥へと走り去っていった。
まぎれもなく、シシ神による再生の施しである。
「まだ、この私を疑うか?モロの君の忘れ形見よ」
山犬はまだ狐の去っていった方を見ていた。
早くもシシ神の再来を察した精霊が、一つまた二つと、闇の中から姿を現しつつあるところだった。
「この森は、一度は死んだ森。先のシシ神の力によって、少しずつ再生を遂げつつあるが、タタラの人間共が邪魔をする。ゆえに戻ってくることのままならぬ精霊達も、まだ多くいるときく」
山犬の言葉に、シシ神は頷いた。
「私はこの森の再生を見守るべく、遣わされたのだ。──しかし、それだけがこの地へ下った理由ではない」
シシ神の眼が、一層輝きを放った。
「もののけ姫と呼ばれる娘は、そなたの妹と聞き及ぶ。それは、まことか」
「今は亡き母犬と母娘の契りを交わした娘だ。妹であることは確かだが」
「名を何という?」
「サンだ」
「──サン」
シシ神はその名を繰り返した。
「森を守る新たなシシ神となることを約束しよう。──だがその代わりに、サンという娘を、私に捧げてほしいのだ」
「捧げてほしい、──だと?」
山犬は牙を剥き出し、唸り声を上げる。
掛け替えのない妹を、一体どうしようというのか。
「そう怒るな、山犬の倅【せがれ】よ。何も娘を贄に捧げろと言っているのではない」
「では、何故サンを求めるのだ?」
「──私の妻として迎えたい」
息をのんだのは、山犬のみではない。
山犬は、背後に何者かの気配を覚えた。
シシ神との会話に気を取られ、今まで気が付かなかった。
この匂いには、確かに覚えがある。
シシ神の眼光が山犬の背後へ向けられた。
その瞬間、何か固いものの折れる音と、弦の切れる音とが響き渡った。
何事かと、山犬は背後を振り返る。
よく見知った人間の若者が、茫然と立ち尽くしていた。
使い物にならなくなった弓と矢を手にしている。
愚かにも、シシ神を狙ったのであろう。
シシ神はアシタカから目を逸らし、悠々と翼を広げた。
集まってきた森の精霊達が、ざわついている。
それはあたかも、森へやってきた新たな守神を歓迎し、賛美するかのようだった。
シシ神が森を去ると、しらしらと夜明けがやってきた。
アシタカは破壊された弓と矢を手放し、箍【たが】が外れたようにその場に腰を落とす。
「聞いていたのか」
山犬の問いかけに答えることはなかった。
片手で顔を覆い、深い溜息をつく。
「シシ神は妹を所望している。──このことを、俺はサンに話さねばならない」
若者の故郷があるという東の果てから、地平線を押し返すように、白い光が浮き上がってくる。
山犬の前脚に隠れていたコダマが、そっと出てきて、憔悴するアシタカに近寄っていった。
ちぢれた大弓の弦を指先でつつきながら、おかしくてたまらないというように笑う。
しかしその場で、コダマに陽気に笑い返すものは、誰一人としていなかった。
【続】