Princess Mononoke

□花嫁 4
1ページ/1ページ


 山犬はある一点を見据え、威嚇するように低い唸り声を発した。
 苔生した木々の合間から、淡い光がこぼれ出ている。
 何かが、近付いている違いない。
 またしても森を脅かすものだろうか。──あるいは、その逆か。
 いずれにせよ、じき、相見【あいまみ】えることになるだろう。
 草に足跡がくっきりと残るほど、山犬は地を強く踏み締めた。

 彼の方へ近付いてくる何か。それは星の光を身に纏っているかのように、ちらちらと瞬いている。
 山犬はその光のまぶしさに、目を細めた。
 ふと、何か小さいものが駆けてくるのが見えた。
 目を凝らしてみると、それは一匹のコダマだった。
 てっきり通り過ぎていくものとばかり思っていたが、コダマは山犬の前脚に、すばやく身を隠した。
 近付いてくるものに恐れをなしているのか、かたかたとせわしなく震え始める。

 森はみるみるうちに、まばゆいばかりの光に覆われていく。
 山犬はその眼でしかと見定めようと、目を凝らした。

 光の中心に、神々しいその姿があった。
 鳥の姿をした、神である。
 体毛は白銀に輝いている。金の嘴は磨いたようになめらかで、火のように赤い瞳はじっと山犬を見つめていた。

 見る者を畏怖させる、この仰々しい出で立ち。
 山犬はようやく確信を抱いた。
 おそらく、この神鳥の正体は──

「この森の新たなシシ神か」

 鳥は赤い瞳を輝かせながら、頷いた。

「この森は神が去って久しい。新たな神となるべく、私が遣わされたのだ」

「では、シシ神であることを明かしてみせろ」

 神鳥はふと、ある一点を見つめた。
 年月を経てささむけた、浅田の大木である。
 山犬が検めると、はたしてその裏側に、瀕死の狐が横たわっていた。
 首に矢が刺さっている。狩人に狙われたが、捕まる前に逃げたのであろう。

 鳥の神は自らの翼でそっと、深手を負った狐の体を撫でた。
 すると瀕死の狐は、たちどころに目を開き、息を吹き返した。
 首に突き刺さっていた長い矢が、みるみるうちに砂と化して消えてゆく。
 しばらくすると、狐は身を起こした。
 神々しい輝きを放つ存在を、じっと見上げる。
 神がふと視線をそらすと、深手を負ったことなど嘘のように、元気よく森の奥へと走り去っていった。

 まぎれもなく、シシ神による再生の施しである。

「まだ、この私を疑うか?モロの君の忘れ形見よ」

 山犬はまだ狐の去っていった方を見ていた。
 早くもシシ神の再来を察した精霊が、一つまた二つと、闇の中から姿を現しつつあるところだった。

「この森は、一度は死んだ森。先のシシ神の力によって、少しずつ再生を遂げつつあるが、タタラの人間共が邪魔をする。ゆえに戻ってくることのままならぬ精霊達も、まだ多くいるときく」

 山犬の言葉に、シシ神は頷いた。

「私はこの森の再生を見守るべく、遣わされたのだ。──しかし、それだけがこの地へ下った理由ではない」

 シシ神の眼が、一層輝きを放った。

「もののけ姫と呼ばれる娘は、そなたの妹と聞き及ぶ。それは、まことか」

「今は亡き母犬と母娘の契りを交わした娘だ。妹であることは確かだが」

「名を何という?」

「サンだ」

「──サン」

 シシ神はその名を繰り返した。

「森を守る新たなシシ神となることを約束しよう。──だがその代わりに、サンという娘を、私に捧げてほしいのだ」

「捧げてほしい、──だと?」

 山犬は牙を剥き出し、唸り声を上げる。
 掛け替えのない妹を、一体どうしようというのか。

「そう怒るな、山犬の倅【せがれ】よ。何も娘を贄に捧げろと言っているのではない」

「では、何故サンを求めるのだ?」

「──私の妻として迎えたい」

 息をのんだのは、山犬のみではない。
 山犬は、背後に何者かの気配を覚えた。
 シシ神との会話に気を取られ、今まで気が付かなかった。
 この匂いには、確かに覚えがある。

 シシ神の眼光が山犬の背後へ向けられた。 
 その瞬間、何か固いものの折れる音と、弦の切れる音とが響き渡った。
 何事かと、山犬は背後を振り返る。

 よく見知った人間の若者が、茫然と立ち尽くしていた。

 使い物にならなくなった弓と矢を手にしている。
 愚かにも、シシ神を狙ったのであろう。
 
 シシ神はアシタカから目を逸らし、悠々と翼を広げた。 
 集まってきた森の精霊達が、ざわついている。
 それはあたかも、森へやってきた新たな守神を歓迎し、賛美するかのようだった。

 シシ神が森を去ると、しらしらと夜明けがやってきた。

 アシタカは破壊された弓と矢を手放し、箍【たが】が外れたようにその場に腰を落とす。

「聞いていたのか」

 山犬の問いかけに答えることはなかった。
 片手で顔を覆い、深い溜息をつく。

「シシ神は妹を所望している。──このことを、俺はサンに話さねばならない」

 若者の故郷があるという東の果てから、地平線を押し返すように、白い光が浮き上がってくる。

 山犬の前脚に隠れていたコダマが、そっと出てきて、憔悴するアシタカに近寄っていった。

 ちぢれた大弓の弦を指先でつつきながら、おかしくてたまらないというように笑う。

 しかしその場で、コダマに陽気に笑い返すものは、誰一人としていなかった。



【続】

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ