Princess Mononoke

□花嫁 3
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 まだ日は昇っていなかった。
 森は深い闇に包まれている。時折、夜を拠り所とする精霊たちの囁き声が何処からともなく聞こえてくる。
 切り立った岩山の薄暗い穴蔵の中、山犬はじっと目を閉じてその身を横たえている。
 弟と妹はまだ深い眠りの中にあった。
 サンは時折寝返りを打っては、両側の兄弟のうちのどちらかに身を寄せ、意味をなさぬ寝言を口元で呟いている。

 兄犬の目はとうに冴えていた。
 母の姿が穴蔵から消えて以来、縄張りの守役は年長者である彼が担うことになったのである。
 ゆえに眠りについたとしても、意識は常に浅いところに引っかかっている。
 森で異変が起きた時には、自らが身を挺して弟と妹を守らねばならぬのだから。

「──アシタカ」

 兄犬に身を寄せる妹が、寝言をいった。
 片目のみを開けてその寝顔を確かめる。
 サンが満ち足りた笑みを浮かべるのを見届けて、彼はゆっくりと目を閉じた。

 生まれながらの山犬には、色恋沙汰がどのようなものか、よく分からない。
 山犬にとって、雌とは、子孫を残すためのつがいでしかない。
 何故人間は、心までも分かち合い、通い合わせようとするのだろう。
 アシタカという若者が、サンに好意を抱いていることは明らかだ。そしてサンも、アシタカを好いているのだろう。

 お前はあの小僧とつがったのか、と単刀直入に聞いたことがある。
 サンは驚いて、とんでもないと首を振った。
 何故と問うと、困り果てた顔をして、

「私もアシタカも、そんなことは考えたこともない」

 その時、兄犬は悟ったのだ。
 何故二人が付かず離れずのまま、ゆるゆるとこの三月を過ごしてきたのかを。

 ──サンはまだ、あの若者を選んだわけではない。
 その心の中で、彼女の生き様をさだめる天秤は、いまだ危うげに揺れたままなのだ。

 いつか、穴蔵の外で母と若者の交わしていた会話を、兄犬は断片ながら耳にしていた。
 母は、妹は森と共に生き、森と共に亡びるのだと言った。
 しかし若者は、それを聞き入れはしなかった。

「あの子を解き放て。あの子は、人間だぞ」

 きっとあの若者は、いずれ妹が「人として」己の側を歩むようになることを望むだろう。
 若者は妹を、人間だと決めつけたのだから。
 
 山犬はゆっくりと頭をもたげる。
 身じろぎしたかと思うとサンは再び寝返りを打ち、今度は反対側で眠っている弟に身を寄せた。

 迷うのであれば行くな、と兄犬は思う。
 あの人間の若者と生きていく道。人と相容れずに暮らしてきた妹にとって、その道はあまりにも険しすぎるものだ。
 人の手をとるということは、森との隔絶を選んだ世界で生きるということ。
 森を敬う心を忘れた生き物に囲まれて、妹がどうして幸せになれるというのだろう。

 思考を巡らせていたその時、山犬の耳先がぴんと天を向いた。
 素早く身を起こして、出口を睨む。
 低い唸り声が何者かを威嚇するように、暗い穴蔵に響いた。

 兄犬は穴蔵から出ると、鋭い視線で眼下を見おろした。
 森のしじまの中に、夜に住まう精霊たちの囁き合う声が混じっている。彼らも感じ取ったのだろう。──何かがやって来ることを。

 今宵は新月だった。
 月のない暗夜。

 眼下で丸い光が浮かび上がる。
 空に月のない代わりに、森に月が誕生したかのようだ。

 何が起きているのか、把握しなければならない。

 山犬は遠吠えを轟かせながら、切り立った岩から飛び立った。




【続】
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山犬の兄弟は、一匹がサンの兄、もう一匹が弟という設定にしました。

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