Princess Mononoke
□花嫁 2
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タタラに暮らす人間の私利私欲と、森に生きるもののけ達の憎悪とがぶつかり合った、苛烈な闘いが収束して幾月。
東から旅をしてきた人間の青年アシタカと、山犬の娘サンは、付かず離れずの関係を保って関わり合っていた。
アシタカはタタラでの仕事が終わると、森を訪れる。
ヤックルと名づけられたアカシシに跨って、森に暮らすサンの元へ会いに来るのだ。
昨日も夕陽が辺りを朱に染める黄昏時、アシタカは森へやってきた。
川辺の岩場に座って、二人で干し肉を食べた。川魚捕りの腕比べもした。飽きるとまた岩場で休んで、他愛もない話をして笑い合った。
夜になると仰向けになって、満天の星を眺めた。アシタカの故郷に伝わるという星占いもしてもらった。あまり思わしくない卦だったので、サンが腹を立てると、アシタカは笑ったあとにふと神妙な顔をして、
「占いなどあてにはならないよ。気に病むことはない。──明日もサンに、よいことがありますように」
手を合わせて、星に祈りを捧げたのだった。
サンは人間のように星が願いを叶えてくれるなどとは毛頭信じていない。
だが、祈りを捧げるアシタカの姿は神々しく、つい見惚れてしまった。
そして気が付けば、彼と同じことをしていたのだった。
「アシタカにも、明日、よいことがありますように──」
昨日まではいつも通りだった。何もかも。
今日の出来事は、まるで、一夜にして天地が引っ繰り返ったかのようだった。
何故、アシタカは突然彼女を遠ざけようとしたのだろう。
当たり前のように分かち合っていた日々が、何故こうも急に、崩れてしまったのだろう。
理由も分からず唐突に別れを告げられたところで、納得できようはずもない。にもかかわらず、彼は、もう会ってはいけないのだ、の一点張り。
何故、わけを教えてくれないのか。──何故、もうお別れだなどと、簡単に言えるのか。
「アシタカにとって、私は、突然会えなくなったところで、なんら惜しくはない相手だったというのか……」
サンは釈然としない面持ちで、夜の帳をおろした暗い森へ入ってゆく。
あちこちから様々な魑魅魍魎の鳴き声が聞こえてくる。脆弱な人間であればたちどころに恐れをなすのであろうが、そのようなものは、この森で長きにわたり暮らしてきた彼女の驚きには値しない。
「どうした、サン。随分と虫の居所が悪いようだな」
顔を上げると、暗闇の中に彼女の兄弟である山犬が見てとれた。兄の方だ。ぼんやりと淡く光る二匹のコダマが、その前脚のまわりを楽しそうに駆け回っている。
どうやら、サンを迎えに来てくれたらしい。
サンは無言で山犬に歩み寄っていき、その白い毛を、親しみをこめてそっと撫ぜた。育ての母を亡くした今、彼女が唯一家族と呼べる存在は、モロの元で共に過ごした、この山犬の兄弟のみとなった。
コダマは追いかけっこをやめ、憔悴の面持ちで白い毛に顔を埋める彼女を、物珍しそうに見上げた。
「アシタカと、喧嘩してしまった」
「喧嘩?」
「アシタカが、もう私とは会わないと言うんだ。わけもきかせてくれなかった。私の方なんか、見向きもせずに行ってしまった。──酷いと思わないか」
普段のサンからは想像も及ばぬ、弱々しい声だった。
山犬の兄は首を傾け、異種の妹を一瞥する。
いつからであったか。
サンがこんなにも脆くなってしまったのは。
人間と交わることを遠ざけ、森の精霊たちと共に生きてきた頃のサンに、戸惑いと哀しみはなかった。──少なくとも、今ほどには。
あの頃のサンは強かった。妹を脅かすことなど、何人たりとも出来ぬと思っていた。
人間にも山犬にもなれぬ娘。母はよくサンのことを、醜い子だと、憐れみをこめて呼んだものだった。
兄犬は口に出すことこそなかったものの、母とは意見を違【たが】えていた。
彼は人間の妹を、美しいと思った。
姿形は忌み嫌う人間のものであっても、その心は、まごうことなく気高き勇士そのものであった。
この森に住まうどの生き物よりも、妹は強かった。そしてこの先も、強くあり続けるはずだった。
その強さが、たった一匹の人間と関わるようになったことで、脆く揺らいでいる。
「サン。小僧がお前を遠ざける理由を、俺は知っているよ」
「……え?」
「聞きたいか?」
サンはこぼれんばかりに目を見開いている。
静かにその目を見つめ返しながら、兄犬は今は亡き母を思った。
兄でさえこれほど愛おしいのだ。一体どれほど、母はこの妹を可愛がっていただろう。
妹の最大の理解者が、母だった。彼はそう信じてやまない。その理解者は、今はもうこの世に存在しない。誰一人として、サンを見守る者はいないのだ。
ゆえに、兄である自分が、可愛い妹の保護者としての役目を負わねばならぬ。
──あの人間の小僧に、この娘の不幸は決して癒せない。
山犬の兄は、全ての根源となった今朝の出来事を、最愛の妹へと語り始めた。
【続】