Princess Mononoke
□花嫁 1
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朝の訪れとともにいずこへと消え去ったシシ神の代わりに、幾月ほど経った頃、かの森に一柱の神が落とされた。
森をふたたび豊かにすることと引き換えに、神はある条件を差し出す。
──かの「もののけ姫」を、我が伴侶に。
「小僧。──お前にサンを救えるか?」
「アシタカ!」
「……」
「アシタカ!私の声が聞こえないのか!?」
三度目の呼びかけで、彼はようやく歩みをとめた。
胸丈まで生い茂った草をかき分ける恰好のまま、彼女を振り向きもせずに。
少女は息を切らしながら、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。
アシタカは、やはり彼女を見ようとしない。
下唇を強く噛み、視界をさえぎる草を苛立たしげに小刀で薙ぎはらった。
「なぜ、私を無視する!」
答えはない。
アシタカはサンに背を向けたまま、俯く。
気まぐれな突風が吹いて、彼の短髪をいたずらにもてあそんだ。
長く伸びた草達が、横薙ぎにゆらゆらと揺れている。
アシタカはつかんだ草の一房を強い力で握り締めた。
喉の奥から絞り出す声は、この青年にはめずらしいことに、まるで覇気がない。
「……そなたはもう、私と会ってはいけない」
「何?」
「会ってはいけないんだ」
「何を言っている!?風がうるさくて、聞こえない──」
サンは思わず口ごもった。──風の吹く方向を見つめるアシタカの横顔が、あまりにも寂しそうだから。
気まぐれな突風さえも、彼に同情したのか、しんと静まり返った。
深い悲しみをその横顔と背中にたたえて、サンを決して振り向くことなく、アシタカは静かな口調で、「サン」と彼女を呼ぶ。
「そなたと私は、同じ場所では生きられないんだよ。──こうして会うことさえも、きっと許されないことなんだ」
その言葉は、今度こそはっきりとサンの耳に届いた。
──同じ場所では生きられない?
すぐには理解しがたかった。
まるで、アシタカの声であって、そうでない声を聞いたかのようだった。アシタカではない、別の誰かが彼の声を使って、語りかけているに違いない。
アシタカがそんなことを言うはずがない──。絶対に。
しかしサンの信頼は、アシタカその人によって、いともたやすく打ち砕かれる。
「私はもう、二度とサンに会いには来ないよ。──この森にも、今後はなるべく近寄らないようにしよう」
口先ばかりで、アシタカは前に進むことも、後ろにひくこともできずにいる。
サンを振り向かないのではなく、振り向けないのだった。
最後に一目、顔が見たいと思うのに。面と向かって別れを告げられない。
──あの目を見てしまえば、きっと、よりいっそう離しがたくなる。
ゆえに、敢えて彼は背を向けるのだ。
彼にとって最愛の、もののけ姫に。
「サンは我が一族の娘だ。森と共に生き、森が死ぬ時は、共に滅びる」
彼女の育ての母であった山犬は、かつてアシタカに、そう釘をさした。
──そうだ。この娘は人であって、人でない。
サンは「森の神」に捧げられた娘。森がその身を欲するならば、何の躊躇いもなしにその身を差し出すだろう。
人の身である彼のことなど振り返ることなく、緑深い森の奥へと駆けていくだろう。呼びかけに応じることもなく、きっと瞬きののちには、その姿をくらましてしまうことだろう。
初めから分かっていたのではなかったか。
もののけ姫は得難き娘。決して、私のものにはならぬと。
積み重ねた逢引の末に、おこがましくもあらぬ夢を抱いてしまった。──いつの日か、サンが私の側で生きてくれるようになるかもしれない、などと。
まったくもって愚かしい。
アシタカの口元に、寂しげな笑みが浮かんだ。
「そなたとは、ここでお別れだ。サン」
「さっきから、一体何を言っている……?」
サンはまだ事の経緯を知らない。
なぜアシタカが、彼女に別れを告げなければならなかったのか。
だが、それは敢えてアシタカが伝えるべきことではないだろう。
──そのようなことを彼自身の口からサンに語るなど、アシタカにはとても耐えられない。
「じきにそなたも知ることになるだろう。──どうか、達者で」
さらばだ、もののけ姫よ。
言うが早いか、彼は駆け出した。
決心の鈍らぬうちに、彼女のもとを去らねばならなかった。
それはまるで風のような俊足で、いかな山犬と共に育ったもののけ姫とて、到底追いつけるものではなく──
少女が草を抜けると、既にひらけた野道の向こうには、誰の姿も見当たらない。
どのみち、その道の先はあの憎い人間の女の住まうタタラの村だ。サンが人里を敬遠していることを、彼は当然知っている。
「おのれ、アシタカめ──!」
サンは拳を握り締め、口惜しげに地を踏みならした。
予想だにしなかった。いつかアシタカと会えなくなる日が来ようなどとは。
──私の元を去るというのか。
共に生きようと言った、あの言葉は偽りだったのか。
振り向きもしなかった薄情な背中が憎らしかった。もどかしくて、恨めしくて、腹の底から怒りがこみあげた。この世で最も大事なものに裏切られた気分だった。どうしようもなく悲しくて、身体が震えて、不覚にも涙があふれた。
「ここでお別れだ、だと?どうか達者で、だと?ちっともわけが分からない!アシタカの馬鹿、理由くらい教えてくれてもいいだろう──!」
ザザ、と木の枝の擦れる音がする。
大木の影に隠れて、物憂げな顔をした彼がその慟哭をきいていたことを、彼女は知らない。
【続】