ranma 1/2
□微笑みの国
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──古典音楽の曲名より
「……ま、乱馬」
柔らかに頭を撫でられる感触で、急速に意識が開けてゆく。
顔を上げて、まだ夢のなかに置いてけぼりにされたままのように、霞がかったままの寝惚け眼に一番最初に映ったのは、柔らかに微笑むあかねの顔だった。
「おはよう、乱馬。もう朝だから起きないとね」
「─…あ、ああ」
この上なく優しい声であかねが言う。
起き上がると同時に何かの焼ける匂いが鼻腔を擽り、何とも言えない空腹感に見舞われた。
微笑むあかねに手を引かれてリビングに入ると、あかねが俺のために椅子を引いてくれる。
「ああ、──悪いな」
「悪いだなんて、いつもこうしてあげてるじゃない」
エプロンのリボンを縛りながらキッチンに向かうあかね。
ちりり、と頭の何処かがさすように痛んだ。
それは厳密に言うと、起き上がった時からずっと感じていた鈍痛。
思わず眉を顰めると、朝食を載せたトレイを手に戻ってきたあかねが近づいてきて、そっと問う。
「どうしたの?乱馬」
「……何か、変なんだよな」
「何が?」
あかねの完璧な微笑みは崩れない。
並べられた朝食はどれも完璧な出来栄えで、何とも食欲を誘う香りが漂う。
鮭の塩焼きを箸でつまんで口に運んでみると、完璧な焼き具合と塩加減に思わず感心してしまった。
──感心?
「どう?おいしい?」
「ああ、美味いんだけど…」
「どうかした?」
「お前ってさ……こんなに、料理できたっけ?」
言ってしまってから、ああヤバい、と頭のどこかで思い切り警鐘が鳴った。
無意識に身体が強張り、恐る恐るあかねを見上げた。
──あかねは変わらず、微笑み続けている。
「どうして?あたし、料理は得意じゃない」
「─…え?」
──そうだっただろうか。
じっとあかねを見詰め続けてみても、あかねはやはり表情一つ変えない。
その微笑みを見ているうちに、感じていた頭痛が血管内の血の巡りと共鳴するように脈打ち、みるみるうちに増大していく。
「─…お前、誰だ?」
──思い出した。
あかねは、こんな女じゃない。
可愛げがなくて、不器用で。
表情なんか瞬きのうちにころころ変わるような、せわしない女。
可愛くねえけど、誰よりも可愛くて。
小憎たらしいけど、本当は──誰よりも大切な、
「──お前はあかねじゃない。俺が見てきたあかねじゃない」
「…何を言ってるの?あたしはあたしじゃない。乱馬が望んでる、完璧な『あたし』でしょ?」
「違う、全然違う!」
微笑んだまま、あかねは声を荒げる俺を凝視する。
──寒気がした。
もし本物のあかねがこんなにも表情に乏しい、従順なだけの女になってしまったら。
「ふくれっ面で、不器用で─…でも、そんなあかねが、俺は一番好きなんだ。あいつはあいつらしいままでいい──!」
ぐにゃり。
益々増長した頭痛に頭を抱えたと同時に、見る世界が螺旋の中に巻き込まれるようにして消えていく。
微笑むあかねの顔が、渦に巻き込まれて歪んで……
「─…ま、乱馬っ!!」
「──うげぇっ!」
ゴスッ、と強烈な一撃を鳩尾に食らって、俺は思わず腹を押さえて悶絶した。
「いつまで寝てるつもり?ほら、遅刻しちゃうじゃないっ!」
眉を吊り上げて怒るあかね。
その般若の様相を見ていると、何故か涙が出そうなほどに懐かしく感じた。
──何故だろう。よく覚えていないけれど、短くて長い、夢のようなものを見ていたような気がする。
「あ…あかねぇーっ!」
「なっ──、何すんのよっ、変態!」
「うぐっ!」
感極まって背後からタックルするように抱き着くと、真っ赤な顔をしたあかねに殴り飛ばされた。
そして階下からしっかりと漂ってくる、何かが焦げたような匂いが鼻をかすめる。
「─…やべえ…俺、なんか泣きそう」
「はあ?…どういう意味?」
無残な鮭の丸焦げを見てそう言えば、何を勘違いしたのかあかねの片頬がひくっと攣った。
愛の鉄拳を右頬にしっかりと食らいながら、それでも泣きたくなるような懐かしさがなぜか収まらない。
さっきまで頭痛がしていたような気がした。
今ではもう、霧が晴れた様にすっきりとしている。
end.