ranma 1/2

□雨音
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その事実を聞いた時、ああやっぱり、と思った。
ここ最近の心身の不安定さは、全てここから来ていたのだ。
別段変わりのない腹に手を宛がってみる。
時を重ねるにつれて少しずつ、重量を増してゆくであろうその存在。

産婦人科の自動ドアをくぐると、外は雨だった。
湿った空気を感じながら、意外にも落ち着いて居られている自分は天晴れだと思う。
ああ、また雨か。
止めどなく涙が溢れ出てきて、思わず力を失いその場に蹲った。


「なんで…」


どうして。
どうして、こんなことに。


「何、泣いてんのよ」


自動ドアの開く音と共に、言葉とは裏腹な優しい声が、雨音を縫って聞こえた。
けれども今の自分には振り返る勇気と気力すらなくて、ただ、その無償の優しさに甘える。


「……やっぱり、いた」
「…うん。何か月って言ってた?」
「三か月だって…」


視界が滲み、広がるアスファルトの灰色が揺らぐ。
信じられないくらいに涙脆くなった。
妊婦は情緒不安定になるらしいが、まさかそれを自分が被験することになるとは。


「どうしよう…。俺、どうしたらいいんだよ…」


そっと後ろから回された手も、抱き締められる温もりも、あまりに優しくて涙が止まらない。
三か月。
その時を遡ると、息が詰まりそうになる。
自分が自分でなくなった日。
何かが死んだ日。

本当に馬鹿で無知だった。
春休みまでに金を貯めたくて、女の姿で深夜のファミレスのバイトをした。
シフトが終わって、同僚の男から渡されたコーラを飲んでから、何も覚えていない。
気が付けば知らないホテルの一室でたった一人、何も身に着けていない姿のまま、ベッドに寝ていた。

放心状態で帰ると、あかねが驚いた表情で自分を見ていた。
あんた、どうしたの。
ひどい格好。
あかねの声を聞いた瞬間、堰切ったように涙が溢れだして、その場に糸が切れたように崩れ落ちた。
助けて、あかね。
俺、男に戻れない。
戻れなくなったんだ─…。


「婿殿ともあろうものが、そのようなへまを…。湯をかけても男に戻らないとあれば、男に戻っては都合の悪い変化が体内で起きていると言うこと」


シャンプーの曾祖母の予見は当たっていた。
その時誰もがその決定的な言葉を口にすることを憚ったが、自分には分かっていた。
何かが、身体の中にいる。
だから自分は女で在り続けなければならなくなった。


「泣いてばかりじゃ駄目よ」
「だって…俺、母親になんかなれない…。俺は男なのに…」


自分という存在意義の核が揺れている。
自分は一体何なんだろう。
ずっと男として生きてきたのに、ある日突然の運命の縺れで女の身体を得て、今は母親になろうとしている。


「…じゃあ、おろすの?」


雨音に混じる静かな声は、責めるようなものではなかった。
だからただ目を閉じる。
雨音とあかねの声、ふたつともとてもよく似ていた。


「乱馬。あたしが、ずっと側にいてあげるから」


そんなはずがないのに、腹の中で、その物体が動いたような気がした。
まるで存在を誇張するかのように。
あかねの言葉に同調するかのように。






end.

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