spirited away
□天命
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天命
神無月が去り、霜降月がおとずれた。
神のおらぬ月の間、神渡しの風にのって出雲の国へと旅立っていた年若き小白川の主は、自らが護る川の中へと龍身をといて飛び込むなり、膝を抱えて蹲るような格好で、ゆっくりと川底へ沈んでいった。
長いかわせみ色の髪が、透明の水のなかで、魚の尾ひれのように、ゆっくりと泳いでいる。
川を司る水神は、そのままゆっくりと沈んでゆき、川底に音も無く尻を付いた。
膝を抱えたまま、彼は水の中で重苦しく溜め息をついた。
「……頭が痛い」
言うなり、彼は片手でこめかみを抑えた。
白皙の顔が苦しげにゆがみ、眉根が寄った。
清らかな川の流れも、この頭痛と心痛の気休めにはならない。
出雲の国で出会った神々から言われたこと、あの憐れみの視線が、小白主の胸をついていた。
『…可哀相に。まだ若いのになあ』
『天命には逆らえないから、仕方がないと言えば仕方がないが…』
『さしずめ、龍の生殺し、といったところか』
──この小白川は、いずれ人間の手によって埋め立てられてしまうらしい。
それを知ってから、彼は様々なところへ赴き、なんとかして自分の川をこの世界に留めることができないだろうかと、その緒(いとぐち)を見つけるためにただ奔走した。
しかし、どの老神に訊いても、答えは同じだった。
それが定められた天命であり、彼はそれを受け入れるしかないのだ、と。
創られたその時から、小白川は、いずれ人間の手によって葬り去られる運命にあったのだろうから、と。
龍の生殺しとは、まさにその通りではないか。
彼らは、彼が人の手によっていずれ殺されるのを、ただ黙って待っていろと言うのだ。
天命というものが定めた時は、刻一刻と近づいている。
悩みに悩み、水神の頭痛と心痛は日々増した。
人は死期を悟るというが、それに似ていると彼は思った。
時折川端に集まってくる人間たちが、この川をどう埋め立てようか、恐れ多くも彼の目と鼻の先で、あれこれと意見を出し合うさまを、彼は苦々しい思いで見つめていた。
川を氾濫させて、あの人間共を飲み込んでしまおうかとすら思った。
しかし、心ではそう思っても、元来の性格が冷酷無慈悲にはなりきれぬたちである彼に、そんなことは出来そうにもなかった。
まるで、死刑の執行を恐れる死刑囚のような気持ちだった。
しばらくそうして川底でうずくまっていると、ふと、何かが川面に触れたのがわかった。
彼はぴくりと肩を揺らし、顔を上げた。
川面を見上げると、何かがひょっこりと川端から顔をのぞかせた。
人間の子どもだった。
害もなければ利も与えない、そんな存在から目を離すと、彼はまた溜め息をついて、膝に額を押し当て、鬱々とした気分に浸った。
子どもの手が川面を揺らして、バシャバシャと水がはねる音がしたが、耳を塞ぎ、彼はその音を無視した。
ぼちゃん、と一際大きな音がした。
小白主ははっと顔を上げ、そして顔色を蝋のようにさせた。
子どもの身体がゆっくりと沈み、そして浮かんだかと思うと、流されていく。
耳をつんざくような泣き声が川底まで届くと、考えるよりも早く、彼は龍身に転じて上へ向かって泳いだ。
流されていく子どもに追いつくと、背に乗せて、水の流れに抗って進んだ。
子どもの手が、角をしっかりと握り締めているのがわかった。
浅瀬まで来ると、先程までわんわん泣いていた子どもは、既に泣き止んでいた。
身の安全を悟った瞬間から、危機感は消え失せたようで、今は珍しい生き物の背に乗っていることを、楽しんでいるようだ。
はしゃぐ子どもをいい加減背からおろそうと、身体を傾けてみても、角をがっちりと掴まれているので、角が引っ張られて彼自身が痛い目を見る。
彼は溜め息をつき、目を瞑った。
鱗がしゃらしゃらと音を立てて、花びらのようになって水面に浮かぶと、子どもは目を剥いた。
おかしな生き物はもうどこにもおらず、代わりにおかしな格好をした少年に、子供は抱きかかえられていた。
子どもが不満げに、唇を尖らせた。
「きれいなヘビさんはぁ?ヘビさんどこ?」
「……ヘビではない」
失礼な誤解にむすっとして小白主が言うと、子どもが頬を膨らませた。
「そんな顔をするものではないよ、そなたは女子なのだから」
「でも、ちいちゃんヘビさんにあいたいんだもん」
「…そなたはちいちゃんと言うの?」
「うん。ちいちゃんだよ」
「でも、それが本当の名ではないだろう。名はなんと言うの?」
「ちーちゃんはね、ちーろ、っていうの」
「……ちいろ?」
「ちーひーろっ!」
「ああ…、千尋か」
事務的な口調で言い、小白主が小さくうなずくと、千尋が嬉しそうに顔を綻ばせた。
それでも、にこりとも笑わない少年を見て、すぐに子どもの顔から笑顔が消え去った。
「おにいちゃん、さみしそうだね」
「……なに?」
「わらわないの?おにいちゃん」
彼は、子どもの丸い目から目を逸らした。
川面に太陽の光が反射して、流されていった龍の鱗が、遠くできらきらと星のように光っていた。
その光からも、視線を外した。
「……笑えないよ。私はもう」
「なんで?」
「なんでって…」
──もうじき死ぬから。
言うつもりはなかったのに、気づけば声に出してしまっていたらしい。
すると、子どもが、ますます目を丸めた。
「なんで?なんでしんじゃうの?」
「……天命だよ。仕方がないことなんだ」
「てんめい?」
「決められた運命、ということだよ」
「…うんめい?」
「わからない?……じゃあ、こう言えばわかるかな。ここで今日、千尋が溺れて私に助けられたことも、運命かもしれない。千尋が生まれた時から、決められていたことかもしれない、ということだよ」
言ってみてから、小白主は少しだけ面映ゆくなって、微笑んだ。
好色男のような大それたことを言ってしまい、思わず気恥しくなった。
子どもが、少年が少しだけでも笑ったのを見て、釣られて笑顔になった。
「うんめい?おにいちゃんとちいちゃん、うんめい?」
「うん。きっと」
「すごいね。うんめい、すごいね」
「うん…そうだね」
帰り際、子どもが何かを彼に差し出した。
鶴と亀、松竹梅など、縁起のよいものが散りばめられた袋には、赤い字で「千歳飴」と書かれている。
受け取った小白主が、首をかしげてしげしげと見つめていると、千尋が輝くような笑顔で彼を見上げた。
「ピンクのあめは、ちいちゃんがたべちゃったけど、しろいのはおにいちゃんにあげるね!」
「…なぜ、これを私に?」
「おかあさんが、しちごさんのときにくれたんだよ。ちいちゃんが、ながいきしますよーに、って!」
「──!」
「だから、おにいちゃんも、ながいきするといいね」
小白主は、天を仰いだ。残酷な運命を定めた天を見上げ、熱くなる目頭を指で抑えた。
「ねえねえ。ながいきしたら、また、あえるかな?」
彼は片膝を付き、千尋の頭を、片腕でそっと抱いた。
そして、穏やかな表情で、天命のもつ二面性に思いを馳せながら、小白主はささやいた。
「……うん、きっと」
end.
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2011.11 拍手御礼