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□亡霊
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【亡霊】
彼との出会いはごくありふれたもので、運命とか、特別な何かを感じるようなものじゃなかった。
わたしは受験をひかえた高校生で、あの人は家庭教師としてうちにやってきた大学生。人生の一大事を前にして成績不振に陥っているわたしのために、お母さんが雇った。
彼は背が高くて、綺麗な顔をしていて、頭が良くて、穏やかだった。
礼儀正しくて、愛想が良くて、そんな彼をお母さんはすぐに気に入った。
けれどわたしはそんなあの人になかなか馴染めなかった。非の打ち所のないような人に勉強を教えてもらうのは、正直つらかった。
どうせわたしは出来の悪い子。どんなに完璧な人に教わったって、きっと無駄。
コンコン、と遠慮がちにドアをノックする音。続いて、聞き慣れた声がした。
「そろそろ勉強の時間ですよ」
わたしはその声を無視した。頭からふとんを被って、暗闇の中でかたく目を閉じる。
しばらく待ってから、彼はたずねてきた。
「今日は勉強する気分じゃない?」
「……」
「そう。確かに、そんな時もあるよね」
ドア越しから聞こえてくる声は、相変わらず物静かで何を考えてるか分からない。
わたしは何も答えずにいた。
黙っていなくなればいいのに、相手はなかなか辛抱強かった。
「ーーきみは」
一瞬躊躇をにおわせて、思い切ったように言いきる。
「僕のことを、あまりよくは思っていないみたいだね」
図星だった。けれど直接肯定するのはさすがに気が引けた。
彼の声が少し揺れる。
「……僕がなぜきみの家庭教師を引き受けたか、わかる?」
枕を抱き締めた。
「会いたかったからだよ。もう一度」
声はすぐ傍で聞こえた。ちょうど、ふとんを被っているわたしの頭の上あたりで。
でもそんなはずはない。ドアの鍵は閉めてあるし、ここは二階だから他に入ってくる方法はないはずーー。
おそるおそるふとんから顔を出してみる。
ーーそこに彼がいた。
痩せていてすらりと背が高いあの人が、捨てられた子犬みたいに寂しそうな目をして、わたしを見下ろしていた。
「どうやって……」
入ってきたの、と言い掛けて口をつぐむ。
彼はゆっくりと上半身を折った。そして長い両腕をわたしの背中に回して、包み込むようにわたしを抱き締めた。
「会いたかった。ずっと、そなたに会いたかったんだ」
彼の肩越しで、所在をなくしたわたしの両手が宙に浮いていた。
大人びた声が悲しげに揺れる。
「一瞬たりとも忘れたことはない。千尋、そなたの手を放したあの時から、私はーー」
手を放した?いったい何のことだろう。
わたしは何も知らない。
「放してください、先生」
「千尋ーー」
「放してっ。放してくれないなら、お母さんを呼びます!」
突き飛ばした時、彼はなぜかとても軽かった。
そして冷たくて、触れた感じがしなかった。
「……受け入れてはくれないんだね、千尋」
消え入るような声で囁く彼。
わたしは唇を噛んだ。
「だって、わたしーーあなたの言う『千尋』じゃないもの」
彼は目を見開いた。力なく笑いながら、首を振る。
「そなたが、千尋でないはずがない」
「本当よ。千尋というのはたしかにわたしの名前だけど、おばあちゃんの名前でもあるの。
先生はきっと、勘違いしてるんだわ」
先生の顔はみるみるうちに翳りを帯びてくる。
「では、本物の千尋は今どこに?」
「……」
沈黙の意味を知ると、彼は深くうなだれた。きらりと光るものが数滴落ちた。
「わたしが小学校の時、胃に癌が見つかってね。ーーもう手遅れだったの」
彼は泣いていた。手のひらで顔をおおい、くぐもった声を出す。
「信じられない。……いや、心の奥ではとうにわかっていたのだ。千尋にはもう会えないのだと。
戻るのが遅すぎたーー」
悲しみに暮れる彼の身体が、下の方から少しずつ薄れ始めた。
「どこに行くの?」
驚いてたずねるわたしに、打ちひしがれた彼はもう何も答えない。
彼は消えた。まばたきをした後には、もう残像すらのこさずにその姿は消えていた。
「もう私の帰る場所はない」
最後の最後にそんな囁きが聞こえた気がした。