liar game
□風を届けたくて
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あの日最後に見た彼女の最高の笑顔が、今でも何よりの生の糧として、記憶のネガに鮮烈に焼き付けられている。
たとえそれがどんなに饐えた香りを運んできたとしても、もうその痛みと苦しみに麻痺した俺の心身は、ただあの笑顔に生き甲斐を見出だそうと足掻くだけだ。
「…あれからどのくらい経ったんだろうな」
ただっ広い水色の空を見上げて、重ねた年月を数えようとして、やめた。指折り数えるほどに、あの笑顔が遠くなるような気がした、から。
『秋山さんならどんな場所でも大丈夫って信じてます。…それから私、止めません。その権利がありませんから』
『…そう』
別れのあの日、今日と同じような水色の大空の下で、俺達は何を思ったのだろう。
もう二度とこの国の土を踏むことはないと言い切った俺に、彼女はただただ笑顔ではなむけの詞を贈った。
でも、正直に言おう。今だからこそ分かったことなのだが、俺は本当は、君に「止めて」欲しかったんだ。あの頃預かり知らなかった所で。
『…理由を聞かないのか』
『聞きません。話すか話さないかは、秋山さんの自由ですから』
何処までも、彼女は俺の意思を尊重しようとした。旅立とうとする俺の心に余計な波風を立てまいとしていたのだと思う。心優しい彼女のことだから。
『ここでさようならです。秋山さん』
くるりと振り返った瞬間、柔らかい空気が鼻を掠めた。瞬きをする間に、その空気は既に、霧散するように離れてしまったけれど。
思わず頬を抑えた。まだ柔らかい感触と温もりがリアルに残っていた。空気にすら触れさせたくなかったんだ。空気が浚ってしまうと思ったから。
『…俺、君のこと…』
『秋山さん。どうか振り向かないで、私に秋山さんの背を押させてください』
ついに最後の最後にも言い損ねた言葉のかわりに、彼女の完璧なまでにきれいな笑顔を焼き付けた。視覚のシャッターを押したと同時に、彼女は、俺に背を向けさせた。
『…さようなら。秋山さん』
その声が少しだけ震えていたかもしれないと思ったのは、俺の都合のいい解釈だろうか。
黙って背を押してくれたあの日の彼女だけが、追憶のアルバムのなかでなによりも忘れ難く輝かしい。
今日もどこかで、あの子は誰かと笑っているんだろうか。海の向こうの、俺達が生まれ育ち、出会いそして別れたあの地で。
「……好きだ」
あの時あの子に伝えることのできなかった言葉を、そっと口にした。風が浚って行ってくれるといい。遠く遠く海の果てまで。
届くことなど期待はしないけれど、それだけでまた生きて行けるような気がした。今頬を撫でた風が、言葉を乗せた風が、もしかしたらあの子のもとにたどり着くかもしれない、と信じるだけで。
end.