liar game

□ユダの接吻
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十二使徒のひとり・イスカリオテのユダは、接吻を以ってしてイエスを裏切った。






「今回もなんとか勝ち上がれそうだな」
「…そうですね。秋山さん」


安堵の表情を浮かべて壁に凭れ掛かる彼を、私は正視できずにいる。
いつもの如く完璧な必勝の策を講じて勝利を確信している彼。
けれども彼は知らない。
もう既に、抜け出すことのできない網に掛かってしまっていることを。


「どうした?なんだか嬉しくなさそうだな」


私の様子がおかしいことに漠然と気付いて、彼が訝しげに眉を顰める。
私は無意識のうちに、ポケットの中にある紙をくしゃりと握っていた。
それは裏切りの証。
私は彼が最も厭う人物と、最も忌まわしい契約を交わしてしまった。


『……アキヤマを負け抜けさせてほしい?何を言っているんです?あなたは彼の味方でしょう?』
『元はと言えば、私のせいで秋山さんまで巻き込んでしまったんです。だからもう─…」
『罪滅ぼしのつもりですか?彼の背負う負債はどうするつもりです』
『…全て、私が背負います』



軽蔑の嘲笑を浮かべながら、それでも契約は交わされた。
大切なものを守るためには、時として自分が身を落とさなければならないこともある。
たった一人で負債を全て背負い、ファイナリストになろうとしているなどという彼のシナリオに気が付かなければ、きっと違う結末が待っていた。
けれど知ってしまったからには、このまま指を銜えてその瞬間をただ待っているなんてことは出来ない。


「秋山さん。もしも、私達が離れ離れになったとしたら…」


彼の眉が訝しげに顰められる様子を視界の端で捉えながら、私はその手を初めて自発的に握った。
振り払われはしなかった。
けれど彼の指先から伝わる微かな振動で、私の振る舞いに対する動揺が滲み出ていることが分かる。


「…突然、何を言い出すんだ?一体何があった?」
「……その時は、全て私に引き取らせてくださいね」


問い掛けには答えずにそう締め括ると、その頬に少し震える指先で触れる。
何かに気が付いたような見開かれる切れ長の瞳、それをしっかりと焼き付けながら、踵を持ち上げて瞳を閉じた。

初めてのキスは、一瞬がまるで悠久にまで引き延ばされたかのような、そんな感覚を連れて来てくれた。
腰に宛がわれた手や、下唇に微かに感じる吐息も、全てが目まぐるしいのに尾を引いていた。
そうやって、尾を引く余韻の中にいて、こんなにも近くにある閉じられた瞼と睫毛に、手が届かないもどかしさに目を細めることしか出来ない。


「秋山さん」


もう一度、今度は向こうから貰い受けたキスを唇に記憶しながら、目を開こうとしない彼が全てを知ってしまったことに気が付いた。
瞼を上げればそこでぷつりと糸は切れ、幕が下りてしまう。
だから全てを見てしまう前に、見えないものを必死に心に記憶していたのかも知れない。
この人はやはり勘が鋭いのだと思った。


「今まで出会った誰よりも、素敵な人だと思ってました」
「…うん」
「今も思ってます」
「…うん」
「これからも、同じです」


唇に痺れが走るようなそんな甘美な感覚に翻弄されながら、カサリと音を立てて床に落ちた契約書をぼうっと見下ろした。
ユダの裏切りの接吻。
接吻を合図にキリストを裏切ったユダは、内応を予見していたキリストに、一体何を思ったのか。


「ここでさようならです」


初恋の味と裏切りの味のどちらがより濃厚に唇に残るのだろう。
観念したように俯いてしまった彼と距離をとりながら、戻りはしない感触を思い出そうとして、指先で唇をなぞる。
けれども契約を交わした禍々しいその指では、その感触すらもぼんやりと薄れてゆく。






end.

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