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□服従した日
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「魔法のためなら、何でもするんだね?」
「はい、約束します」
「あたしに逆らわないね?」
「はい」
どこまでも従順に返答するハクに、湯婆婆は吹き出したい邪悪な衝動を堪える。
何という真っ新な竜だろう。廃れたところがなく、あまりに無垢だ。
けれど、世間は甘くない。そんな甘ったれは生き延びてはいけない。
…容易に他人を信用するなんて、竜は本当に愚かだねぇ。
「…じゃあ、盗みを働けと言っても、あたしに従うかい?」
「は、……え?」
ハクの声のトーンが変わる。期待は一瞬にして掻き消され、そこに疑念と困惑の色が滲みあがる。
ハクの胸中の胸騒ぎが一際増した。
…この魔女に従ってはいけない、絶対にだめだ。
心の中の無垢で清いままのハクが、ハク自身の煩悩に切実に語り掛けてくる。
その一歩を踏み出してはならぬと。この魔女に身をゆだねてはならぬと。
「…どうしたんだい、ハク?できないっていうのかい?」
湯婆婆は意地悪く笑う。椅子に深く腰掛け、煙草の煙を辺りに吹き散らしながら。
彼女が徐にすいっと指を引くと、逡巡してぐっと押し黙る竜の少年の目の前に、かつて彼が名を書き入れた契約書が現れる。
ハクはそれをじっと見つめた。殆んど忘れかけていた、自身の名。ニギハヤミコハクヌシ。
途端に、ハクの心象風景に懐かしい思い出が映し出される。
かつて己が統べていた川の流れに、突如として落ちてきた温かい幼子。
もがき苦しむその幼子を浅瀬まで運んでやる竜身の自分。
泣き笑いながら礼を言う幼子。
温かく、狂おしい感情。
瀕死の状態にあって魔法をどうしても学びたかったのは、あの川を取り戻すため。
…そして。
再び、あの幼子と巡り会うために。
再び、あの温かく、狂おしい感情を呼び覚ますために。
「…わかりました」
自然と、ハクの口からその言葉が漏れ出ていた。忘れかけていた本来の目的と意図を思い出し、再び自身の存在価値を認識する。
例え名を、奪われようとも。
例え名を、忘れようとも。
「湯婆婆様、私はあなたに従います。……どうか、あなたの弟子にしてください」
そのために、私は生きている。
だから何もかもを奪われようとも、あの幼子のことだけは、記憶に深く焼き付けておこう。
……あの幼子の名は、千尋。
その名だけはこの心の奥深くに、必ず引き出せるように、大切にしまっておこう。
いつか再び巡り会う、その時のために。
end.