Inuyasha

□渇望
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「ーー今宵は満月のようですね」
 読みかけの書物から顔を上げて、ふいに少年が言った。
 年の頃は、十五、六だろうか。
 髪が長く、目鼻立ちの整った、目の冴えるような美丈夫である。
 頼りない燭台の火が照らす少年の面差しは、俯き加減でどこか憂いを帯びている。それがより一層、この少年の並外れた美貌を引き立たせていた。
「いつもより鼻が利きません。それに、ご覧ください。髪がこのように……」
 少年はみずからの長髪をひとすじ手の平にのせ、ちらりと燭台の向こうを見やった。
 刺繍に興じていた娘が顔を上げる。
 二人の目があった瞬間、彼女の表情が、まるで化け物を目の当たりにしたかのように固く強ばった。
 近頃となってはもうすっかり馴れきった反応だが、それでも少年は心に痛みを感じた。
「ーー母上?」
 呼ばれて、りんは我に返ったようにはっと手で口を覆う。ただでさえ青白い顔が更に血の気をなくしていた。
 母は無理に笑顔を繕い、言った。
「狗王。あなたはまるで、日に日にお父様に似ていくみたいね。本当に瓜二つだわ……」
「ーーこのような姿でも、ですか?」
 狗王はわずかに眉をひそめ、身を乗り出した。
 驚いたりんは後退しようとするが、すかさず伸びた狗王の手が彼女の二の腕をとらえる。
「私の顔をよくご覧になってください。母上、どうか目を逸らさずに」
 切羽詰まった彼の様子に、りんは目を見開いた。
 狗王の瞳は、闇のように深い黒だ。つややかな黒髪が彼の肩から一房、こぼれ落ちる。
 いつのまにか、幼子はこんなにも成長していた。母親である彼女がまったく年をとらないというのに。
「本当に、私と父上は瓜二つでしょうか。このような、人間の姿をしていても」
「……ええ、よく似ているわ」
 りんは微かに震えながら俯いた。
「あなたはあの方と同じ顔をしている。美しくて、とてもーー恐ろしい」
 燭台の火がちらちらと揺れる。年若き母を見つめる狗王の瞳に暗いものが宿った。
「……母上は、この私を恐れておられるのか」
 居たたまれなくなったりんは、袖で顔を覆い隠そうとした。だが狗王はその手首を掴み、なかば強引に自分の方へ引き寄せた。
「何をするの、狗王」
 りんの声に怯えが表れた。
「手を離して」
「離しません」
 狗王は暗い笑みをこぼした。
「離してしまえば、母上は私から遠ざかってしまうでしょうから」
 りんは思わず身を竦ませた。その様子を見下ろす狗王の眼差しが、慈愛に満ちたものになる。
「母上。あなたは本当に可愛らしいお方だ。ーーこの私が、あなたを取って喰らうとでもお思いか?」
「そんなこと、思うはずが……。お願い、狗王、あまりお母様を困らせないで」
 りんの瞳に涙が浮かんだ。
「お母様があやまるわ。あなたのことを、恐ろしいだなんて言ったりして……。本当に、ごめんなさい」
 狗王の顔から微笑みが消えた。
「母上、泣いておられるのですか」
「……」
「私のせいで、泣いておられるのですね」
 狗王は唇を噛んだ。肩が小さく揺れる。
「どうすれば泣き止んでいただけますか。ーー母上。どうか、泣かないでください」
 あなたの涙を見るのはつらい。
 狗王は、愛してやまない母の懐に抱きついた。
 柔らかい胸に頬を押し付けて目を閉じる。母の生温かい涙が、肩に降りかかった。
 以前母に、乳離れが遅かった、と聞かされたことがあった。
 それもそうだろう。狗王は母の傍から片時も離れたくなかった。いつも母の存在を肌で感じ取っていたかった。
 思えばこの塗籠も、母の胎内も、よく似ていた。生まれる前も、生まれた後も、狭くて暗い湿った空間だけが、彼の知る世界の全てだった。
 知りたいとも思わなかった。今更、外の世界や光など。
「いっそのこと、生まれてこなければよかったのかもしれません。母胎に留まり続けたなら、母上と共に生き、共に果てることもできたのに」
 狗王は恐れていた。
 いつか母と離れ離れになる日が来ることを。
「母上、私の傍にいてください」
 
 あなたさえいてくれれば、私は他に何も望まない。






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