Inuyasha

□塗籠
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 御館様は、あの塗籠に珍しい生き物を飼っておられるそうだーー。

 屋敷の中でそのことを知らない者はいなかった。その上くだんの生き物が、彼らの主が通い詰めるただ一人の妻であるということも。その生き物が子まで成しているらしいことも。
 ーー異端の者をこの西国の妖王の屋敷に留め置くことに、内々で反意を抱く者がいないわけでもなかった。
 だが絶対的な力を持ち合わせたうえにきわめて冷酷なたちであるこの主は、屋敷に仕える者達の畏怖の対象であった。今や犬妖族の、いや全てのもののけ達の頂点に君臨するこの妖怪に、面と向かって異論を唱えることのできる者は皆無に等しかった。
 頼みの綱である御母堂は、天空の城から高みの見物を決め込んでいる。最後の肉親である異母弟はもとより干渉するすべを持たない。彼がこの屋敷に足を踏み入れたことはなく、また半妖ゆえに一族から受け入れられてすらいなかった。
 誰からの指図を受けることもなく、屋敷の主は毎夜一人であの離れの塗籠へと足を運んだ。そして一夜を過ごし、暁が訪れるまで決して母屋へ戻ることはなかった。
 塗籠には禍々しい結界が幾重にもなって張られている。囚われた者とその子は、一瞬たりとも外へ出ることは許されなかった。
 また屋敷の者がその塗籠に近付くことも固く禁じられていた。以前うっかり禁を破ってしまった女中が、有無を言わさず手打ちに遭ったことがあった。
 塗籠に囚われた者に対する主の執着ぶりは常軌を逸していた。
 屋敷の者達は恐怖し、生き残るために、何があろうとも目と耳と口の全てを閉ざさなければならぬことを学んだ。
 唯一、屋敷の重鎮である邪見だけが、長年仕えてきた主の酔狂ぶりを痛ましく見つめていたーー。


 離れにある塗籠に向かう途中、長い回廊から彼はふと夜空を見上げた。
 月明かりが池に降り注いでいる。
 今宵の月は特に丸く、そして近かった。雲上にあるこの屋敷を丸ごと呑み込んでしまいそうなほどに大きい。
 金の瞳は瞬きもせずにそれを見つめる。
 不意にあの娘の言葉が脳裏に蘇った。屋敷の者達が「塗籠の君」と称す、囚われの人間の娘。
『ーーここは月の国。あの子には、そう教えています』
 儚い声でそう囁いたあの娘。私の腕枕に頭を預けたまま、幸の薄い微笑みをこちらへ向けていた。
 あの塗籠に窓はない。誕生して以来太陽や月を知らず、娘が生んだ子はいつ消えるとも知れぬ燭台の灯りのみを頼りに育った。
 日焼けを知らぬあの娘と子の肌は、降り積もった雪よりも白い。
『外を知ることは永遠にないのかもしれませんね。……本当に可哀想な子』
 娘は諦めきったように俯いていた。この私を恨むことも憎むことも、とうに観念したようだった。
『これがせめてもの慰めなのです。どうかあの子には、ここが苦しみや悲しみのない月の国なのだと思わせてあげてーー』


 塗籠を訪れると、りんは幼い子を胸に抱いてまどろんでいた。
 彼は足音を立てぬよう近付き、褥の傍に腰を下ろした。首を傾け、眠る母子の顔をのぞき込む。二つの寝息は静かで規則正しいものだった。
 もっとよくのぞき込もうとした刹那、銀髪が肩口からさらりとこぼれ、子の鼻先を掠めた。小さな鼻がひくりと震え、閉じていた金の瞳が薄く開いた。
「ーー父上?」
 彼は答えなかった。子はりんの腕から這い出すと、彼に向かって腕を伸ばした。
「父上」
 彼は黙って両手を差し出し、白銀の夜着を纏うその子を抱き上げた。胡座を組んだ脚の片方に座らせると、小さな手が彼の夜着にしがみつく。
 りんが生んだ子は男児だった。
 父方の血をよほど色濃く受け継いだと見え、その姿形は彼の生き写しのようだ。ただし額に月の刻印はなく、手には鋭い爪がない。そして満月の日には妖力を失い、唯の人間の子となる。
 半妖ーー出来損ないだ。
 だが彼はこの子を決して疎んではいない。慈しんでやまないあの娘が産んだ子だ。
「ーー狗王。今日はどのように過ごした」
「母上がお話を聞かせてくださりました」
「どのような話だ」
「地上のお話です。おもしろいけれど、わたしにはよく分かりませんでした。……父上、鳥や花とは何ですか?」
 その時、りんがかすかな寝言をこぼした。何と言ったかは聞き取れなかった。
 彼は思う。りんはどのような夢を見ているのだろうかと。
 夢の中でも地上を懐かしんでいるだろうか。共に旅をしていた頃のりんは、小鳥を愛で、花を摘み、何のことはない自然にいちいち喜んでいた。
 りんから人としての生を奪ったのは、他でもない彼自身だった。
 どれほど恨まれ憎まれようと、もはや地上へ帰してやることは出来ない。この母子はこの塗籠の外へは決して出られないのだ。この結界から出たが最後ーー。
「……地上に焦がれてはならぬ」
 思いの外低い父の声に、狗王は身震いした。
「よく覚えておけ、狗王。お前は母をこの塗籠に繋ぎ止めるための生ける枷ーー。つまらぬ好奇心など、決して母には見せるな」
 幼い狗王にその言葉が分かるはずもない。だが、父の冷ややかな命令だけは絶対だった。狗王は恐怖に身体を強ばらせながらも必死で頷いた。
 一瞬、狗王を見下ろす彼の瞳に憐れみが過ぎった。

 ーーりんをこの塗籠に閉じ込めた時、彼女は心の底から絶望していた。
 そんな彼女を彼は力でねじ伏せ、一方的に思いを遂げた。
 一度契りを交わせば心も通うだろうと思っていた。
 だがりんはその事実を認めようとはしなかった。彼に強いられたことは全て悪夢なのだと自分に言い聞かせることで、かろうじて自我を保っていた。
 やがてりんは食を拒み、痩せ細っていった。手枷をつけて自害を阻もうとも、いずれ衰弱して死ぬのは時間の問題だった。
 より強力な枷が必要だった。どうあってもりんをここへ繋ぎ止めておけるだけの、確固たる枷がーー。

 恐らく私は狗王に情などないのだ。この子はただ、りんの手足を雁字搦めにするための鎖に過ぎない。
 そうでなければどうして我が子にこのような仕打ちが出来よう。

「地上などに焦がれることはない。ここは月の国、苦しみや悲しみとは無縁の世界。ーー母からそう教わったのではなかったか?」

 闇よりも暗い塗籠の中。こくりと頷く幼子を抱いて彼は目を細めた。






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