Inuyasha

□悪夢
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 ーー悪夢よりも惨めな現実がある。

 ここはいつでも真っ暗な闇。広くて薄ら寒い塗籠という檻の中。音もなく、光もない。かろうじて燭台の火が一つ、いつ消えるとも知れず頼りなさげに揺れているだけ。
 太陽も月も見えない。昼か夜かも分からない。目覚めるときも、眠りにつくときも、闇。寝ても覚めても暗い夢の中。
 手首には枷がはめられている。おかげで逃げ出すことも、自害することもできない。
 せめてもの抵抗として、出される料理はすべて拒んでいる。無理矢理口に押し込まれても吐き出した。もう何日を水だけで過ごしたことか。飢えは感じなくなっている。
 私が衰弱して死ぬのが早いか、あの人が私を解放するのが早いか。ーーさてどちらだろう。
 頭が割れるように痛い。今日は寝ていても起きていても嫌な夢を見る。深い霧、大きな月、赤い瞳、決別したはずのあの人が私をーー。

「あああっ!」
 ひどく汗をかいていた。幾重にも着込んだ衣が汗を吸って重く身体にのしかかってくる。身体は小刻みに震えだし、目からは熱い涙がほとばしった。
 燭台の火が消えかけている。その揺れる火影に、何かが蠢くーー。
「どうして……?」
 板の床がギイ、と軋む。すべるような足音はすぐ傍で止んだ。
「……どうして、か。愚問だな。お前の命は、私のものだからだ」
 私を見下ろして、美しく恐ろしい妖怪は言った。琥珀の瞳が、薄い唇が、くくっと笑いかける。
「誰にも渡さぬ。ーー永久にこの殺生丸の傍に置く」
 掠れた悲鳴を上げた。必死に逃げようとして、後ろから強く抱きすくめられた。それでももがいて逃れようとすると、さらに深く抱き込まれた。抵抗むなしく、いとも簡単に帯を解かれる。はだけた合わせ目から、するりと冷たい手が滑り込む。
 その手は肌を這い下りていく。下へ、下へ。
「おねがい、帰して……」
 耳元で忍び笑いが聞こえた。暗く湿った笑い声だった。猫を撫でるような声音を使い、彼は囁く。
「ーーなるほど。毎夜通った甲斐があった」
 その手は私の下腹に触れていた。宝物を慈しむように、優しい手つきで。
「どうやらお前は、月人とやらの子を宿したようだな」
 身体から血の気が引いた。違う。ちがう。首を振る。まさか、まさかそんなはずはーー。
 首筋に微かな吐息が降りかかった。笑っている。喜んでいる。私を閉じこめて、この人は。
「何を驚くことがある?当然の成り行きだろう。ーーここへ連れ帰ってから毎夜、月が傾くまでお前を離さなかったのだから」
 いいえ、あれは、夢の中での出来事だったはず。閨の営みを強いられ、泣いて嫌がったことも。逃げても逃げても私を捕まえた執拗さも。私の抵抗を無視してなかば無理矢理に思いを遂げた、その卑劣さも。何もかも、夢だと思えたからこそ耐えられた。
 ーー現実であってはならないのに。
「意識が飛ぶほど夢中になっていたのか?この私との戯れに。……りんよ」
 為すすべもなく、腕の中に囚われる。幼い頃は、心地良いと慕っていたはずの広い胸。背中越しに感じる温もりは変わらずあたたかいのに、あなたのその手はなぜそんなにも冷え切ってしまったのだろう。
「まだ、この私から逃れたいか?」
「……」
「私の子を宿したというのに?」
 その一言は、鉛のように重く心に沈んでいく。
 もう逃れられない。絶望的な思いがした。彼の重石は深く深く沈み、堆積して、私をここから動けなくしてしまった。ここから脱することも、自らを殺すこともできない。枷をはめられ、永久にこの悪夢の中に繋がれたままーー。
 身体の奥で、何かが蠢く気配がした。





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