Inuyasha
□命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも 5
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薄ら寒さを覚えてかごめは覚醒した。
しかし身を起こそうとしても、身体中が鉛のように重く感じられ思い通りに動かすことができない。
気絶する前に嗅いだ花を燻したような香りがまだ辺りに漂っていた。
空気とともにその香りを鼻から吸い込んでしまうと、またしてもしつこい睡気が彼女を見舞う。
ここはどこだろう。
かごめはますます重さを増してくる目蓋をなんとか閉じないようにして、視線をさまよわせた。
どこかの古城か寺院、神社のようなたぐいの建物の一室にいるように思えた。
彼女のいる木造家屋の広々とした一室は、現代の家屋のそれとは異なる古風な佇まいをしている。
木枠に何枚もはめ込まれた桜花模様の散る障子は、すべて余すことなくぴったりと閉じられ、薄障子の向こうの闇が透けて見えた。
電気のたぐいは部屋中のどこにもあらず、壁に沿って等間隔に並べられた燭台に灯る小さな蝋の炎が照明の役割を果たしている。
高さの違う畳が置かれた一角には、荘厳かつ絢爛な屏風が置かれていた。
花鳥風月のなかに、黒檀色の水干を纏ってひとり佇む青年の姿が小さく描かれている。
かごめの胸がどきりと鳴った。
足元に金と銀の小犬を二匹侍らせ、何かを待ち侘びているかのように上方を見上げる青年の後ろ姿。
それがいやに見知ったものの後ろ姿に似ているような気がしたのだ。
滑らかな銀色の髪の天辺に、女人のように桜の散る薄花染めの衣を被(かづ)いているため、犬耳の有無を確かめることができない。
「違うわよね、犬夜叉のはずがないわ…」
かごめは花の香でまだ不自由な身体を真っ白な褥(しとね)からゆっくりと起こすと、首を何度か横に振った。
突拍子もない考えを諌めるため、そして花を燻した香を振り払うため。
ともあれ一刻も早くここを抜け出したほうがいいと判断して、かごめはよろけながら立ち上がった。
戦国時代を旅していたとき、何度も敵に攫われたことのある彼女の知恵だった。
長く廊した細道の木目を音をたてないように、しかしできるだけ速く進みながら、その建物内の静寂にかごめは薄ら寒さを覚えた。
ただっ広いその建物の中に、生き物の気配が感じられないことがただ不気味だった。
明かりが灯っていたのもかごめが居た部屋だけだったらしい。
通り過ぎる部屋はどれもみな障子が隙間なく閉じられており、今にも障子の向こう側に人魂がちらつきそうな禍々しい闇に昏れている。
本当に何もいないのか、それともかごめが「視えない」だけなのか。
長いこと霊力を解き放つことのなかった彼女に、そこのところの判断はなかなかつけ難かった。
状況に馴れてきたのか、あれこれと思いを巡らせ、屏風に描かれた銀髪の青年のことも気になり出してきたところで。
かごめは一瞬はたと歩みをとめた。
──ぞっと寒気がした。
ちょうどかごめが通り過ぎようとした部屋の中で、突然にぽっと赤い光が浮かび上がった。
障子に透けるその不気味な光はゆらゆらと心許無気に揺れており、どうやら燭台の炎のようだった。
凍りついたかごめは、その火影の向こう側でゆらりと立ちのぼった真黒の「何か」を視た。
「─…っ!!」
悲鳴を飛び出させそうになった口元を手で覆い押しとどめて、かごめは一目散に長い廊下を駆け出した。
息が切れそうになっても走り、無我夢中に駆けて、漸く玄関口に辿り着くと裸足のまま逃げるように屋敷を飛び出した。
石畳の敷き詰められた道を真っ直ぐに、足を縺れさせながら走ると、赤い鳥居とその両端に佇む二匹の狛犬の石像が見えてきた。
あの鳥居を通り抜ければきっとここから出られる。
かごめはそこに向かって急いだ。
しかし不思議なことに、幾ら走っても鳥居まで辿り着けない。
まるで目の前に見えない壁があって、そこから先は進むことが罷り叶わないのだとでもいうように。
「な…、なんで……!?」
走り疲れて息を途切れさせながらかごめは言う。
はたと鳥居を見遣って、彼女は眼を丸めた。
さっきまであったはずの狛犬たちの石像がなくなっていた。
ぎく、とかごめの身体が硬直する。
足元で二つ分の子犬の鳴き声が聞こえたが、それよりも背後にいる「何か」に背筋が凍り付いた。
恐る恐るかごめが振り返ると、まず初めに長い銀色の髪がひとすじ、月光にきらめきながら視界を過ぎった。
その髪はとても長く、背の高いその青年の背丈をもゆうに超えるほどで、その足元にまるで狐の尻尾のように毛先が丸まっていた。
闇にまぎれてしまいそうなほどの黒檀色の水干を身に纏い、頭には色の褪せた赤い水干を被(かづ)いて。
青年の素顔を隠して覆うのは、角の生えた禍々しい般若面。
赤く裂けた口元がにたりと笑んでいた。
「犬……夜叉?」
小さくわななく唇でかごめが問うと、青年は無言のまま色褪せた被衣(かづき)を鋭い爪の生えた手で風に舞わせ──かごめの頭にそっと乗せた。
露になった青年の頭で、あの頃と変わらない犬耳が小さく震えていた。
はたはたと寒々しく翻る色褪せた水干の裾。
握り締めたかごめの目に、じわりと涙が浮かんだ。
「これ、火鼠の……それに、その耳…」
その時青年が何かを般若面の奥でつぶやいた。
かごめは涙を浮かべたまま、はたと口を噤む。
「─…い」
「…え?」
「……く、い…」
青年の手が伸び、にわかにかごめを被衣ごと抱き締めた。
息を呑むかごめの耳を、信じがたい言葉が過ぎる。
「憎い…お前が憎い─…」
恐ろしい般若面の眦から、透明の涙が音も無く伝った。
「誰だ…お前は誰だ、私は誰なんだ、──何も分からない…」
かごめにとって、待ち焦がれたはずのその声は、まるで別人のもののように聞こえた。
To be continued...