Inuyasha

□天瓜粉
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一番星が遠く瞬き始めた薄闇の空から音も無く降り立つやいなや、殺生丸は持ってきた手土産を駆け寄ってきた娘に手渡した。

桃花色をした上質な羅(うすもの)をきらきらとした眼で受け取り、りんは大層嬉しそうに顔を綻ばせる。



「わあ…!すごい、きれい……!」



天女の纏う羽衣にも似たその桃花色の薄い衣は、真夏の猛暑に始終音を上げていたりんにとってこの上ない代物だった。

畳まれた羅をそっとひろげてみると、乾いた風に乗ってふわりと長くのびた裾が舞う。

そうして、かすかに吹く風に裾を遊ばせてはしゃぐりんを、澄んだ金糸雀色の瞳は少しばかり細まって見下ろす。



「気に入ったか」

「はい、とっても…!」

「……そうか」

「うんっ。殺生丸様、ありがとう!……大好き」



気恥しそうに加えられた一言に紅色の瞼が微かに震え、冴えた氷の面がほんのわずかにたゆむ。

りんは頬にうすく紅をさしたまま、その心無しかおだやかな表情を仰いだ。

焼け付くようなこの暑さのなかでも鼻先に汗の一滴すら見せない、涼しげなかんばせ。



「ねえ。殺生丸様は、暑くないの?」



羅を丁寧に畳みながらりんが問うと、殺生丸はふ、と吐息だけで静かに笑んだ。



「暑さを全く感じないわけではないが」

「でも、汗かくほどじゃないってこと?」



彼の場合、無言は肯定を表すことが大多数を占めている。

そのことをよく心得ているので、返事を寄越さずにじっと彼女を見下ろす殺生丸の瞳を、りんは羨望の眼差しで見つめ返した。



「いいなあ…。りんは暑がりだから、汗もたくさんかいちゃうし」

「知っている」



え、とりんが目を丸めると、彼の口角がかすかに持ち上がった。



「先日、閨(ねや)で額から玉のような汗を……」

「──!?せ、せせ殺生丸様っ!」



閨での話をこうして何の前触れもなしに出されると、りんはいつもこうして同じ反応を示してみせる。

目をぐるぐると回して、頬を茹で蛸よりも赤く染め、彼が二の句をつげぬように手でその口を塞いでしまうのだ。

それが何となくおもしろおかしいので、時にこうして彼女をからかっては、彼はひそかにその反応を愉しんでいた。



「い、いきなり何言い出すのかと思えば…!」



のぼせ上がったような顔をして、りんは力なく言う。

己の口を覆うふたつの手の手首を彼がとった一瞬、りんの身体がやにわに宙を舞った。



「……え?」



気づけば自分が彼の腕の中にいたので、りんが素っ頓狂な声を上げた。

そんな彼女に構うことなく、殺生丸はしれっとした顔で、すたすたと森深くへと歩みを進める。



「あの…せ、殺生丸様?どこに行くの?」



ちらと一瞥をくれてやり、殺生丸は端的に答えた。



「川だ」

「…川?なんで?」

「汗ばんでいる。水浴びをしてこい」

「……え?」



何を思い違えたのか、再びりんの顔にさっと赤みがさす。



「あ、あの…今夜は夕餉前には帰らなくちゃいけないから、その……」



言いにくそうにどもるりんを見下ろして、殺生丸の金糸雀色の瞳がまたかすかに細まった。



「りん。──何を考えている?」

「な、なにって……えっ?」

「私はただ、これを使うために水浴びをしろと言っただけだ」



言うと殺生丸は、片手で懐に手をいれ、金箔の貼られた小箱を取り出してみせた。

なにこれ、とまじまじと見つめながらりんが問うと、殺生丸の歩みがはたととまる。

目の前には流れの穏やかな澄んだ小川があった。



「天瓜粉だ」

「てんかふん?」

「水浴びを終えたら、背にはたくといい」



りんの手に小箱を握らせると、殺生丸は彼女を地へおろした。

りんは足が地につくと、未だ首を傾げたままに小箱の蓋をそっと開けてみた。



中には雪のような白粉が入っていた。

指でさらさらと掬って零して、そのなめらかな感触を楽しみながら、りんはあっと目を丸める。



「もしかしてこれ、あせもに効くの?」



汗をかく性質であるりんは、毎日水浴びをしているにもかかわらず、時折背にできるあせもにひそかに悩まされていた。

そんな悩みを察してこの天瓜粉なるものを贈ってくれたのかと思うと、ありがたさと同時に、恥ずかしさも込み上げてくる。

──衣を脱いで背を晒す相手など、彼しかいないのだから、彼女のそのひそかな悩みを知るひとも、彼しかいない。

そのことがひどくなまめかしく思え、なんだか気恥しくなり、りんは思わず殺生丸に背を向けてしまう。



「─…あ、ありがとう」



ぎこちなく礼を言うと、彼はまたかすかに瞳を細めて、静かに笑んで見せた。













しかし、折角貰った天瓜粉も、背にはたいてくれるひとがいなければ何の役にも立ちはせず。

結局のところ、その役目を担うことの許される人物など其処にいる唯一人しかいない。

そして彼が、背に粉をはたいてやるだけで、やすやすと彼女を見送ってくれようはずも無く。



──結局彼女が戻ったときには、夕餉をとる刻限などとうに過ぎてしまいしまい、世話をしてくれている老巫女にひどく目くじらを立てられる羽目になるのだった。









end.
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天瓜粉は、現在のベビーパウダーのようなものです。

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