Inuyasha
□命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも 3
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朝の通勤登校による人々の賑わいも漸く落ち着いてきた、正午前の都市バスの中。
かごめは後方窓際の座席に座り、ぼうっとした面持ちで窓の外を眺めていた。
ガラスの向こうにある景色は、まるで駆け抜けるかのようにして、一瞬ののちには視界の端から端へと移りゆく。
それはかつて、あの半妖の少年の背に負ぶさられていたときに得た感覚によく似ていた。
──けれど、全然違う。
今この手が掴むのは、空の前方座席の妙にごわついた赤いシートであって、あの冴えるような唐紅の水干ではなくて。
はやぶさのように移りゆく景色は、ガラスに遮られていて手が届かない。
懐かしさと喪失感、決して混じり合うことのないふたつの思いが、かごめの心の壁をゆっくりと伝い落ちてゆく。
日光に透ける白い小さな手がガラスの上でふるふると、心許無さげに小さく震えた。
「──犬夜叉。…今、どこにいるの?」
常人の持ち得ぬ強靭なる心と躰とを持ち合わせた彼ならば、それこそやはぶさのように、五百年の時を駆けて来てくれるのではないかと。
移りゆく景色をその瞳に映し出すたび、かごめは自分の心のうちに巣食う淡い期待を思い知らされる。
停留所を目掛けてバスが少しずつ減速し、景色の過ぎ去る速度もまた勢いをなくしてゆく。
完全に静止してしまった景色の中で、同じような形をした高層ビルがあちらこちらに点在しては遠景を遮っていた。
それらのビル群から逸らした視線を、かごめはいつの間にかがらんと空いていたバスの車内へと移す。
ちょうど乗客が一人、後方口から乗ってくるところだった。
かごめはまだうつろなままの眼差しで、ステップを一段一段上がるにつれ、露わになってくるその乗客の頭部を見つめた。
その乗客は目深に黒の帽子を被っており、濃い影のせいで顔の造形を窺い知ることはできない。
バスが再び動き始めると、長身痩躯のその乗客は、漆黒の長いコートのポケットに手を入れたままゆっくりと通路を歩き始めた。
かごめは興味をなくしたかのようにその男から視線を外すと、頬杖を付きながら再び動き出した景色へと目を向けた。
すう、と滑るようにして、黒づくめの男がかごめの側を通り過ぎる。
男の歩みに付き従う空気が、ふっとかごめの肩を過ぎった──その一瞬。
(…え、なに──?)
かごめは肌に何か底冷えのするような心地を覚えて、咄嗟に自らを抱きしめた。
すぐ後ろで、男が着座した気配を感じる。
──振り返るべきか否か。
かごめが冷や汗を流しながら咄嗟の判断を決めかねていると、背後で不気味な気配が動いた。
気配の動向を読みかねて、びくりと揺れたかごめの片方の肩に、ふと乗せられた誰かの手。
かごめが瞳だけを動かして怖々と視線を向けると──その指先に、獣の鋭い爪が光っていた。
「──恐ろしいか?この爪が」
地を這うように低い声が、かごめの耳元で密やかにささやいた。
振り返ろうとしてかごめは、頭はおろか指一本すら動かせないことに気付く。
──金縛りに遭っている。
そう認識した瞬間、襲いかかってきた息の詰まるような緊張が、彼女の髪の一本すらも余すことなく支配した。
「─…あんた、だ、れ」
石のように硬直した唇にありったけの集中力を篭めて、かごめは拙いながらもどうにか背後の男へと問い掛けた。
男が感心したように、喉を小さく鳴らして笑う。
「やはり巫女だな。金縛りに遭っても口がきけるとは」
「私に──何の、用?」
再び問いながら、かごめは金縛りを解くことに意識を集中させた。
そうすると、身体を雁字搦めにして支配していた呪縛が、深呼吸のたびに少しずつ弱まっていくのがわかった。
「─…さあ?お前は、何用だと思う?」
くすくす、と忍ぶかのような渇いた笑い声が耳を過ぎる。
中々素性を明かそうとしない男のじれったさに歯噛みしたかごめの髪を、唐突に──ひやりと冷たい手が、頭の天辺からすうっと撫ぜた。
「──っ!」
瞬間、かごめは背筋を這い上がるかのようなおぞましい寒気を覚えた。
触れられた後頭部を手で押さえ、金縛りの呪縛から解き放たれた首を回して──かごめは、後ろを振り返る。
「え─…?なんで…?」
漆黒の瞳が驚愕に見開かれ、空虚な空間を映し出した。
──そこには、誰もいなかった。
終点への到着を告げる機械的な車内アナウンスが、呆然としたままのかごめの耳元を通り過ぎていく。
To be continued...