Inuyasha

□月人
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霧が夜半の湖上に立ち篭めている。

月光が差し込み、夜空と湖とをつないでいた。

霧を成す小さな水の粒たちが、月光を受けてきらきらと輝く。

まるで遥かに輝く星が一斉に地に降り立ったかのように。

──湖面の真ん中に悠然と映る満月を、褒めそやしているかのように。



冴えた空気を身に纏いながら揺らぐ湖面を見下ろす妖怪の姿が、霧の中にぼうっと浮かび上がった。

冴えた視線を湖面の月に落としながら、彼は真珠色の髪を夜気に靡かせている。

どこかで詰まったままどうにも流れて行かない、不愉快極まりない過去。

彼はそれを回顧した。










記憶に頓着などしない彼が、あの日のことだけは己ですら驚くほどはっきりと覚えていた。

ーーあの日、夜明け前のこの湖の畔でのことを。

耳を打つ静けさがいかに冷えきったものに感じられたか。目の前の娘のくちびるから細くこぼれる吐息がいかに心を掻き乱したか。

娘は彼を真っ直ぐに見据えたまま、いやに静かな声色で言葉をつむいだ。

──殺生丸様、私は嫁ぎます。



一瞬しんと凪いだ頭の中。

それがゆっくりと、どこからともなくゆらりと昇った霧によって覆われていくのを。

どこか他人事のように、彼は感じていた。

凛とした娘の言葉は、彼にとってはあまりにも現実味を欠いていた。



眉一つ動かさずにいる彼に向かって、娘は深々と、他人行儀に辞儀をする。

ーーごめんなさい。

静かな謝罪が殺生丸の耳を打った。



「あなたは私にとって、命を救ってくれた大事な方です。あなたがいなかったら、私はこうしてここにいることすらできなかった。ーーけれど」



──それでも、あなたと添い遂げることはできません。

決然と言い切ってみせたその瞳に、迷いは一点もなかった。

霧のなかにあって動けない彼にかまわずに、娘は更に言葉を続ける。



「私には想い人がいます。その人も、私を想ってくれています」



彼の片眉がぴくり、と動いたのを知る由もなく。

りんは湖面にうかぶ三日月を見遣ってそっと息をついた。



「──殺生丸様。あなたは私にとって、月に住む人と同じくらいに遠い人です。ただの人間の私にとって、あなたは手が届かないほど遠い……」



ザザ、と吹き抜ける風に森の木々が騒ぎ立てる。

散らばる髪を手で押さえつけて、りんは立ち上がった。



「そんなあなたを、こんな風に縛り付けるのはもういやなんです。─…殺生丸様は、自由に生きるお方だと思っているから」


──私は月人にはなれない。あなたのそばを歩くことができない。

その声は、どこかきっぱりとして潔くも聞こえた。



「だからもう、ここへは来ません」



逢い引きの地をその目でぐるりと見渡して、りんは決然と言い放った。

吹き抜ける風が、身に痛む程に強まった。



「──そうか」



頬のすぐそばを一陣のかまいたちが通り過ぎた。

りんは手のひらで頬を抑えた。頬に小さな切傷があり、指の間から血が溢れた。

驚きに目を丸めた彼女の耳を、小さく笑う声が過ぎていく。

うつむいたまま、小刻みに肩を震わせている殺生丸を、りんは信じられないものを見るように見詰めた。

くく、と喉元で笑う彼。

真珠色の髪が取り巻く風に靡いている。



「よく、わかった。お前はもう、私とは会わぬと言うのだな」

「殺生丸様─…?」

「生きる世界が違う、と言いたいのだろう。私とお前、妖怪と人間──確かにその通りだ。お前が正しい」



いつになく静かな声が、りんの背筋を凍りつかせた。

なにか取り返しのつかないことが起こるような気がした。

躙り寄る彼に反し、りんは震えながら後退る。



「だが、忘れたか?りん。──お前の命を、誰が救ったのかを」



瞳を血のように赤くに染め上げた妖怪が、彼女を貫くように見据えていた。

叫び出したい衝動を懸命にこらえて、りんは更に震える足で数歩後退る。



「お前の命は、私のものだ。誰にも、ましてや人間の男などに渡してなるものか──!」



かっと赤い瞳が見開かれると、彼の背後で湖の水が一斉に水柱をあげた。

──凍りついたようなりんの喉から、声にならない悲鳴が上がる。



りんは追いかけてくる風と水とを振り切るようにして、無我夢中に駆け出した。

まだ明けの見えぬ真暗な森の中、バサバサと頭上をかける鳥の羽音にすら心臓の凍りつく思いを味わいながら。



「やだ、いやだ──!」



石に躓き、地に勢い良く倒れ伏した彼女に、追い付いた風と水とがごうっと音を立てて襲いかかってきた。

……殺される!

覚悟を決めて、りんは固く目を瞑った。

──意識はそこでふつりと途絶えた。










あの時娘を仕留めそこねたのは、己がまだ染まりきれていなかったせいだろう。

その甘さが災いして、つまらぬ人間の若造ごときに見す見す娘を手渡す羽目になってしまったーー。

月光を纏う妖怪が忌々しげに歯軋りする。

──だが、迷いはもう捨てた。



「りん。私は、月人などではない。……それでも、お前とは遥か遠くにあることは変わりないが」



くく、と喉元で笑って彼は視線を腕の中で眠る娘へと落とした。

悪夢にうなされている様子もなく、安らかなる顔で眠り続ける娘。己が恐ろしいもののけの腕に抱かれていることなど知る由もない。



「枷をつけてでも、私はお前を連れてゆくぞーーりん」



──たとえそれが、お前の望むところでなくとも。








end.

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