Inuyasha
□命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも 1
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深山幽谷、深い霧によって抱き取られたその静かなる森の中を、覚束無い足取りで歩く仔犬が一匹。
薄汚れた小さな身体はぼんやりと半透明色をしており、背丈よりも高く生茂る周りの草叢の青々とした色味を透かして見ることのできるほどだった。
今にも空気に霧散してしまいそうな身体を叱咤しながら、それでも仔犬は遠目に見える洞窟を目指して、よろめきながらその草道をゆく。
洞窟にひそむ如法暗夜の闇奥から、一本の手がすうっと伸びた。
洞窟の前にようやっと辿り着くやいなや、力尽きてぱたりと地に倒れ伏せ、それから動かなくなった仔犬の魂に、手がまるで加護を与えるかのようにそっと触れる。
斎(いつ)き娘を愛でるかのごとき手付きで、それは半透明の小さな頭を撫ぜた。
手が離れると、半透明の仔犬の魂が内側から淡い光を放ち、身体が宙に溶け込むようにしてふっと掻き消えた。
遺された小さな光の球を掌に浮かべたまま、手が再び闇奥へと消えてゆく。
「・・・安らかに眠れ」
銀色の髪束を魂の淡い光がぼうっと照らし、俯いた異形の顔が暗夜の闇奥で幽く浮かび上がった。
光を静かに輝り返す黄金色の瞳は、まるでまだ半睡半醒の状態にあるかのごとく、虚ろで何を見ているかすら知り得ない。
恐らく何も見えてはいないのだろう。
彼のひそむ闇を照らす魂の光は、その黯然とした瞳の表面で跳ね返されているかのようだった。
銷魂した身体の飢(かつ)えを満たすかのように、彼は不意に上向いたかと思うと、掌に乗せていた光の球を己の喉元へと流し込んだ。
冷たい魂が淡く輝きながら青年の喉を堕ちてゆくとき、彼はその感触に金色の瞳を微かに細めて耐え忍んだ。
堕ち尽くしてしまうと体内から放たれていた仄かな光は徐々に、燈籠の火が消えゆくのと同じように終息していった。
──そしてまた静寂が耳を打つ。
静寂の中でこそ、彼には声が聞こえる。
生霊(いきすだま)のごとく彼の魂に纏わりつき、決して離れることのない声が。
「やめろ、」
頭に生えた犬耳をぴりりと逆立て、異形の青年は懊悩の果てから声を絞り、硬く目を瞑っったまま頭を横に振った。
膝元まで伸びた天川を宿したような長髪が、頭の動きに合わせて宙を舞った。
目の冴えるような彩色を放っていた唐紅(からくれない)の水干は、少しずつ色が褪せ始めてしまっている。
水干だけではなく、何もかもが色褪せ始めていた。
それが彼には空恐ろしかった。
五百年(いおとせ)もの年月を見送るまで、あと如何程待てば良いのか。
しかし一方で、何故自分が狗魂を喰らって生き延びてまでして過ぎ行く時を見送りたいのかが、分からない。
──思い出せない。自分が一体、何のためにその時の訪れを待っているのかすらも。
決して忘れることなど出来ないはずだったのに。
魂を喰らう度に、自分が自分ではなくなってゆくような心地がするのを、彼はとうに気付いていた。
気付いていながらも、それを止めるわけにはいかなかった。
暗夜の中で褪せゆく追憶に思いを馳せながら独り生き続けてゆくうちに、干上がったその心に残されたものは。
──愛しい。愛しくて、ゆえに憎い。
身を焦がすほどの愛を自分に与えたその存在が、とても憎い。
思い出せなくともこうして待ち続けるその存在への、愛と憎しみとが綯交ぜになって、凍えた魂に更なる如法暗夜を呼寄せる。
例え年月を経て衣が褪せようとも、その情だけは決して色褪せはしない。
思い至ると物の怪の青年は、唐紅の衣を身から脱ぎ、地に打ち捨てた。
燃やしてしまおうかと思ったが、これはどんな炎でも焼き尽くすことが出来ないのだと思い立つ。
切り刻んでもきっと甦る。ただ、色が褪せるだけで。
青年は喉元で笑った。やはり捨ててしまうには惜しいと思い留まったのだった。
──時が満ちて逢いに行くときにはきっと、この衣を見せてやるのだ。
愛しく憎いその存在に。
飲み下した魂が腹の中で転がる音が聞こえるような気がする。
異形の青年は石壁に背を付き、腹を抱えた。
腹の底から笑ってみようと思ったが、口元でしか渇いた笑みを繕うことは出来なかった。
笑いたいはずなのに、気付けば彼は泣いていた。
腹を抱えたまま彼はずるずるとしゃがみ込む。
こうして何度、笑いたいはずのときに涙を堪えられなくなったか分からない。
──そうして流した涙はまた、迷える狗魂を闇へと呼び寄せる。
To be continued...