novels 3
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ぐつぐつと沸点に達して煮立つ水面を菜箸で突きながら、直はすっかり憔悴し切った様子で頭を垂れている。
じゃが芋の塩梅を確かめようとして菜箸で突き刺すと、いとも簡単にぼろりと決壊して醤油味の汁に溶け込んでしまった。
ああ、崩れちゃった、と色のない微かな声が沸騰する肉じゃがの水音に掻き消されていく。
「成瀬くん、私の肉じゃが好きって言ってくれたっけ…」
幼い頃から父子家庭で育った直だから、家事には慣れている。
時折手料理を振る舞えば、成瀬はいつも感心したように褒めてくれたものだった。
『こんな夕食が待ってると思うと、仕事も捗りそうだね』
そう言って優しく微笑んだ成瀬のあの慈愛に満ちた声の色を、今でもしっかりと思い出すことが出来る。
直の表情が苦しげにひずんだ。
「もう、成瀬くんに顔向けできない…。私が傷付けた…」
菜箸が音を立てて台所の床に落ちる。
直は嵌められた婚約指輪の感触を探して薬指に触れてみたが、そこにはあの少しひんやりとした金属の感触はひとかけらも残ってはいない。
ガスの火を止めると、直はシンクに手を付いて落とした菜箸をじっと見下ろした。
「謝って済むことじゃないのに…。謝ることしかできなかった…」
自分の薄情さと不器用さにほとほと嫌気がさしてくる。
食欲をそそる醤油の香りも、立ちこめる仄かな湯気も、全てが唐突に遠く感じられた。
こんな日常的なワンシーンが、どうも自分にはそぐわないような、不釣り合いなような気がしてならなくなったのだ。
腰を屈めて菜箸を拾い、洗わなくちゃ、と微かに呟いて水道のノズルを捻りながらも、直はどうも力が入らずにぼうっと流れる水を眺めていた。
その時、携帯電話が鳴った。
発信源を確認せずに電話に出てみてから、聞こえてきた声に思わすあっと驚いて、直は携帯を取り落しそうになってしまう。
『いきなり電話してごめん。俺だ』
秋山からだった。
直は携帯を握り締める手が小刻みに震えているのに気付き、諌めるように下唇を噛む。
「秋山さん…。どうしたんですか?」
『今から君の家にお邪魔してもいいかな』
「……え?」
あまりにも唐突な訪問の知らせに、直はまたしても電話を落としそうになってしまう。
するとすかさず秋山が次の言葉を発した。
「というより、もう家の前にいる」
咄嗟に直は、この人は本当に狡賢い人だと思った。
こう言われては断るに断れるわけがない。
今この複雑にごった返す心境のままでまさか彼に会う破目になるとは。
分かりました、今開けますから、と言って電話を切ると、直は仕方が無しに玄関口に向かってドアの施錠を解いた。
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