novels 3

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永い虚脱状態から少しずつ覚醒していく意識。

秋山は緩慢な動作で顔を上げ、窓の外を振り仰いだ。

冴え渡るような蒼穹は、広々と全てを包容しようとする。

彼の当て所ない鬱積すらも。


……今は何時だ。俺は何時間ここにいた。

秋山は掛布団の端を無意識の内に固く握り締めている自分に気付き、その稚気に満ちた動作に静かな驚愕を覚えた。


自分は何を離したくなくて、こんなにも必死になっているのだろう。

問い掛ける前からとうに解の明白な問いを、それでも彼は無心に頭の中で反芻し続ける。


解はただひとつ。

要諦となるのは、その解に辿り着くまでのプロセスだ。


……手放したくない。

そんな感情は、かつて最愛の母を喪った時に、彼女の眠る地の底へと共に埋葬してきたのだと思っていた。

否、確かにそうした筈だった。

二度と這い上がってくることの無いように。


けれど今の自分はどうだ。

完全に憑りつかれているではないか。あの日葬った筈のあの感情に。


育った環境の所為か、元々あまり多くを求めること無く生きてきたのが、自分という人間だった。

…しかし、今回ばかりは。

今回ばかりは何が何でも貪欲に、躍起になってでも掴み取りにいきたい。

否、そうしなければならない。



「……直。俺だけど。そこに居る?」



ドア一枚を隔てて、秋山はそれに凭れ掛かり向こう側にいる最愛の存在に語り掛ける。

ドアの向こうから返答は無かったが、代わりに小さく鼻を啜る音が確かに彼の耳に入ってきた。


答えたくないならそれでも構わない。

秋山はゆっくりと目を閉じてから、顔を上げて深呼吸した。



「俺、諦めないから」



色々と頭の中を掻き回して混濁していた言葉たちがあった筈なのに、いざ初めに出て来たのは至ってシンプルなその言葉だけだった。



「諦めたらきっと後悔する。もう君のことを見失いたくないし、俺はずっと側にいてほしいと思ってる」



深呼吸の合間に取り込む部屋の空気には、直を抱き締めた時に香った石鹸の香りが微かに漂っていた。

在り来たりの筈のその香りも、何故だろう、彼女から発せられるととても甘く感じられたものだった。


秋山はドアから背を離してそれと真っ向から向き合った。

この向こうに彼女がいる。

開けて顔を見せてくれはしないかと密かに切望しながら、秋山は微かに笑った。



「だから待ってる。もし君が最後に俺を択ばなかったとしても、俺は諦めない。もう君しかいらないし、君以外見ないから」



言ってしまってから、どうして自分は笑っているんだろうと秋山は密かに訝った。

そしてすぐさま悟ることになる。


全てを吐露したからなのだ、と。

今まで自分が忌み嫌い、遠ざけて来た行為を今まさに成し遂げた、だから。


彼は今度は軽快に笑う。気分が良かった。

行き先など分からないのに、辿り着く場所が果たして存在し得るのかすら曖昧なのに、唐突に全てを見晴らすことが出来たかのような開放感を覚えた。



「俺は貪欲だよ。欲しいと思ったものは必ず手に入れる。でもこればっかりは、君の気持ちの問題もあるから。だから我慢するよ。…君が、俺を択んでくれるまで」



その時、唐突にドアが開き、瞼を腫れぼったくして意気阻喪した様子の直が秋山の眼前に現れる。

明らかに動揺した様子の直を見下ろして、申し訳なく思う気持ちと、確かな歓びが秋山の心中で混ざり合った。


包む込む様に抱き締めても、直は抵抗しなかった。

暫らくの間秋山の胸に頭を預けていたかと思うと、顔を上げて彼の瞳を見上げ、



「…具合は、もう大丈夫ですか」

「うん」

「眩暈はしませんか。熱は」

「大丈夫」

「……よかった」



安堵を窶した小さな溜息が零れ落ちたと同時に、不意に、秋山の上唇が直の耳を掠めた。

驚いた直が身を竦ませる。しかしそれには構わずに、秋山はその耳元で吐息だけの言葉を紡いだ。



「…ありがとう。直」



直が硬直しながら、耳元をたどたどしく指で覆った。

掠めたのはほんの刹那。

それでも確かな高鳴りを覚えたのは、彼も彼女もおなじ。


秋山は一度彼女の身体を抱く腕に力を籠めてから、名残惜しそうにその腕を外して彼女を解放した。

途端に自分自身を抱き締めた直を振り返って、湧き上がってくる言いようのない愛おしさに瞳を細める。



「……待ってる」



その囁きが彼女の耳に届いたかは分からない。

顔を上げた直の瞳は、彼には窺い知れない色を窶していた。




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