novels 4
□深き悩みの淵より、われ汝に呼ばわる
1ページ/1ページ
――古典音楽の曲名より
まだ自分一人では何も出来ないような年の頃から、苦労しながら俺を養う彼女を見ていた。
いつかきっと俺が支えてやらなければと、幼いながらも心に固く誓ったのをはっきりと覚えている。
「深一、人間は正直に生きるのが一番なんだからね」
「悪いことをしたら、あとできっとしっぺ返しを食うんだから」
彼女の言葉は総て、幼い俺の教訓だった。真面目に正直に生きる。そうやって生きてきた彼女を誰よりも近くで見てきた俺だから。
いつか、いつか恩返しを、といつも思っていたんだ。ずっと苦労ばかりかけてきた彼女に、全ての肩の荷を降ろしてほしい、と。
ありがとう、と伝えたかった。これからは俺に任せて、と。もう休んでいいんだよ、と。
……それなのに。
「秋山!お前の母さん、病院の屋上から飛び降り自殺したって……!!」
何故。あと少しだったというのに。一体何故、俺を置いて、逝ってしまったんだ。
あの日あの時、時計の秒針すらも凍り付いた。虚無な儀式ばかりが過ぎ行く中、結局氷を融解する術として縋り付いたのは。
復讐。報復。目には目を、歯には歯を。やられたら、やり返す……。
「…母さん。俺、間違ってる?」
何度も何度も、彼女の位牌に問うた。急速に生き様を転換させてゆく俺を見ていたとしたら、きっと彼女は今泣いているんだろう、と幾度も自嘲しながら。
結局何も出来なかった。彼女への恩返しも。彼女の生き方を貫くことも。何一つ。
復讐なんて無意味で。成し遂げたからといって、本懐を遂げたようには到底思えなかった。
「俺は、どこに行けばいいんだ……」
けれど、頭を抱えた俺を、包み込んでくれる温もりがあったんだ。その温もりはいつも側にいてくれる。まるでそれが当たり前であるかのように。
「秋山さん。ずっと側にいますね。だから、秋山さんも私の側にいてくれるって、約束してください!」
全てを失った。なにもかも。彼女をなくした時に。
けれど引き替えに、とてつもなく愛おしい存在を与えられた。日だまりのような、馬鹿正直で真っ直ぐな、少女を。
もしかしたら俺にもチャンスが与えられたということなのだろうか。全てを矯正し、凍った時間を刻むための。
ならば縋ってみようかと、思う。チャンスがあるなら見過ごしたりはしない。もし、もしも本当にやり直しがきくというのなら。
「直。これ、受け取ってもらえるかな」
少女は泣きながら胸に飛び込んできた。薬指に、俺との永遠の約束の証を光らせて。
一緒に行こうか。二人で。
君とならきっと、何処までも行けると信じているから。
end.