novels 2

□パラビオン
1ページ/1ページ





『君と離れたい。側に居るのは辛いんだ』



あの時のあの人の苦悶の表情、辛辣な声色は、私の心の内奥を深々と刔って埋めることの出来ない窪を形成させた。

周囲の喧騒も自然の紡ぎ出す音も、全て耳から遠退いて行く。

一切の動きが静止した世界の中で、ただ彼の口だけが克明に時を刻んでいた。



『…私がいると苦しいですか』

『ああ』

『私は、秋山さんの重荷になってますか』



答えずにただ諦観し、困ったような微笑を浮かべたのは、きっとあなたが誰より私に優しいからでしょう。

何を諦観したのかなんて聞かない、聞けない。

時よ、お願いだからここで止まっていて。

もう動き出さなくていい。

二度と―……





パスポートを取るのに手間取っていると、彼が悔しそうに歎いた。

彼が過去に犯した罪は、自由に海を渡ることすら阻もうとする。

早く私から離れたい彼のために、私はいよいよ覚悟を決めた。


彼に出来ないのなら、私がこの国を出て行く。

そして二度と戻らない。





誰にも何も言わずに、私は祖国・日本を発った。

家族もいない。もう私を求めてくれる人は、この国に誰ひとりとしていなくなった。

残したものなど何も有りはしないし、だからこそ全てを棄てることが出来たのかもしれない。


新しい私を見付ける。

彼に与えられた窪を抱えたまま、ゼロから這い上がる。

蛹を脱ぎたかった。

この想いだけは胸に仕舞いながら。





異国の地に降り立って一年、私は漸く彼に手紙を書く心境に至った。

ペンをくるりと指先で回しながら、ああこれは知的な彼の癖では無かったかと、ぼんやりと記憶の糸を手繰り寄せようとする。


唐突に祖国を離れるなど、何故あんな大胆なことが出来たのか。

しかし不思議なもので、人間生きようとすれば案外何処ででも腰を据えることが出来るものだ。

自分のような甘ったれた人間でも。

ひたすらに、這いつくばってでも生きようとすれば。



……あなたを忘れません。でも、あなたは私を忘れてください。……



必死に彼の癖を模倣しながら思案したのにもかかわらず、浮かんだ文面はたったそれだけだ。

日本語を書くことすら久しくて、なんだかもう随分と永いこと日本人の殻を脱ぎ棄ててきてしまったような気もする。

では、私は今、何に成りたくてこうして立ち止まっているのだろう。


ペンを回す指をぴたりと静止した。

もうどんな言葉も浮かび上がっては来ない。

何を伝えたところで、それに対する彼本人の反応を確かめる術も無い。

送り主のアドレスを書く気は始めから毛頭無かった。

そして、名も。






丁寧に糊付けして、記憶していた住所を書き入れて切手を貼付け終えると、私は早速外に出た。

一番近しいポストを目指して前進しながら、ふと目の前の景色が妙に霞んで見えることに気付く。

目に指を当ててみると、生温い水滴が触れた。

私は泣いていた。

泣いていたことにすら気が付かなかった。


私はいつから自分に対して無関心になったのか。

きっとあの日、心に埋められない窪を刔られた時だ。

いつしか私自身の感情などどうでもいいと蔑ろにするようになっていた。

正に、捨て身。

あの人の為に、私は何もかもを捨て去った。


泣いていると自覚した瞬間から、鼻の奥がつんと痺れて涙が堰切ったように溢れ出してくる。

ポストに手を付いてうなだれながら、私は自身の微かな嗚咽を聞き取った。


この窪は埋めない。

これが、私があなたを愛した唯一の痕跡なら。

ただ彼には全て忘れて欲しい。

そして彼の中から私という存在の一切を拭い去り、何の痕跡も残さないで欲しい。

その意志表示だけは何が何でもしなければならなかった。

そして、全てを終わらせる。


手紙を受け取った彼はどんな表情をするだろう。

聡い彼のことだから、送り主の名など無くても、直ぐに私の名を掬い上げる筈。

見てみたかった、この目で。

きっと驚愕に見開かれるだろう、あの鋭利な瞳を。


涙がほとり、と手紙に落ちて、『Akiyama』の最後の四文字ほどを滲ませた。

宛名が読めないのでは辿り着かないかも知れない。

それでも良かった。

私はきっと、この手紙を彼の手元に届けることより、こうして自分自身の手で投函することこそに重点を定めていたのだから。



「…秋山さん。……秋山さん」



意味も無くその名を繰り返して、滲んだその名にそっと唇を押し当てた。

その名への変わらない愛を籠めて。

いつかその面影が時とともに風化しても、いつまでもきっと心に留め置くだろう、その名の響きだけは。


『Par Avion』

自分で書いたその文字を指で一度なぞり、それから手紙をかき抱くようにすると、私はそれを赤いポストに躊躇い無く投函した。

大事な手紙は、私の知らない誰かが届けてくれるだろう。


手持ち無沙汰になった掌を見下ろした。

何も残されてはいないかのような空虚を一瞬感じたけれど、そうじゃないと首を振る。

手の中は空っぽ。

それでも、後悔なんてしない。

そう思えるから、まだ私には残されたものがある。





end.

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ