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□小水之魚
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(※りんね祖父×魂子・捏造過去)


どこからともなく入ってきたひやりと冷たい隙間風に、病床の青年はうっすらと瞳を開けた。

見馴れてしまった真白の天井に焦点が合うのに時間が掛かり、確かに目で通して見ている光景のはずなのに、ぼんやりと朧気でまるで実感がしない。

億劫げに頭を傾(かたぶ)けて虚ろな視線をさ迷わせると、横手に見える硝子窓がほんのわずかばかり開いたままになっていた。

机上に置かれた薬袋のとなりの水差しに注がれた水の水面が小さく揺れている。

とても静かだった。いつもは睡れぬほどに喧しい子供らの声のひとつさえも、今は聞こえない。



「─…もう、終わりなのかな」



ほつりと紙面に水を滲ませるかのようにひそやかに言うと、青年は侘しげに瞳を細めた。

ひゅううう、とか細く入り込んでくる隙間風が冷たく彼の左頬を撫で付ける。

今日(こんにち)まで解けそうだった生命をなんとか結び付けて持ち堪えてきたが、どうにももう限界がきているようだった。

人は己の死期悟るという。ゆっくりと揺れる水差しの水面を見詰めたまま静寂に耳を傾けて、青年は胸元を抑えて籠った不吉な咳を二度繰り返した。



枕が冷たい、風が冷たい、指が冷たい。

全てがひやりと温度を欠いたように感じるのはやはり、自分の生命が風前の灯の状態にあるからなのだろう。

そう思うと心にも唐突な冷えが見舞い、青年は思わず咳をしながら身震いした。

無性に誰かに傍にいて欲しかったが、どうやらいつも日暮れまでつきっきりで看病してくれている母は、睡り続ける彼を起こさぬようにと帰っていってしまったあとのようだった。



父母に親不孝を詫びる時間さえももう、残されてはいないようだ。

大学にまで通わせてもらい、これからようやっと親孝行が出来ると思っていた矢先に呆気なく病に倒れ、結局恩返しどころか最期の最期まで苦労をかけっぱなしだった親不孝ものの自分を、どうか許してください、と。



不覚にも眦に涙が浮かびそうになり、痩けた頬を平手で弱々しくはたいて青年は疲れ果てたように目を閉じた。

身も心もか弱いままに果ててゆくのかと思うと息苦しい心地がする。喉元からひゅうう、と隙間風のような息の通う音がした。

──本当にもう終いだ。身体は段々と鉛のように重たくなっていくのに、思考はかえって霧の晴れたように冴えていくのが辛かった。

走馬灯が冴え渡る脳内をあざやかに廻る。二度と戻らない追憶、人生の終末など雲の上ほどに遠いものだと思っていた日々。



青年は覚悟を決める。

せめて次の生を得た暁には、その時こそ、地を這う虫螻(むしけら)でもなんでもいい、ひとつの悔いさえも残さぬように生きてみせよう、と。



臍(ほぞ)を固めてしまうと心は不思議と驚くほどに軽くなり、青年はゆっくりと気を鎮めるように息をついた。

一回、二回、三回─…数えられなくなるその瞬間まで数えていようと思った。

しかし五回目で青年は不意に数えるのをやめた。

「その時」が来たからではなかった。

──誰かがすぐ傍にいた。










「まあっ、いい男」



今わの際(きわ)にある人間を前にしておよそ似つかわしくない鈴を転がしたような声が青年の耳を過ぎった。

視界が開けると同時にまっ先に目に飛び込んできたのは見知らぬ女性の貌。

蛍光灯の明かりに煌めく白糸のような髪に飾られた赤い花と同じ、透き通った紅玉色の瞳が真っ直ぐに彼を据えていた。

弓形(ゆみなり)にしなる柔和な瞳を仰ぎ見て青年は思う。こんなにも美しく儚い女性と最期に巡り会えるとは。

──最期の最期まで、人生は捨てたものじゃない。



思ったままをありのままに素直に口に出して美しい、と伝えれば、雪のように儚くも美しい死神は、まるでこどものように無邪気に笑(え)んで見せた。

その笑みに心が疼き、もう少し、せめてまだ我が身を起こせるうちに出逢えていたならば、と青年は侘しく思う。

細く吹くつめたい隙間風をとめる術を知らぬまま、それでも最期に見せる顔はせめて笑顔でありたいと彼は思った。

無理をして笑顔をつくる。死に畏れて情けなくしょぼくれた顔がこの死神の記憶に染み付くことはどうしても悔しいので、なけなしの見栄を絞って。



時間がとまった。

ひっきりなしに耳を過ぎっていた隙間風の音が聞こえなくなり、青年はそっと目を閉じた。

──最期にあなたに逢えて良かった。









気が付けば青年は真暗な闇の中にいた。

眼をこすりながら起き上がり、瞳を細めて目を凝らすと、次第に前方にふたつの楕円形の光が浮かび上がってくるのが見えた。

一方からは雪のように真白の光が、もう一方からは彼岸花のように真赤な光が、彼の足元まで長く楕円上になって伸びている。



──どちらかを選ぶってことだろうか。青年は足元までのびた二色の光を見下ろしたまま頭を捻った。

どちらも今わの際に邂逅したあの美しい死神をそこはかとなく想起させる色味だ。

どちらの出口をくぐっても悪いことはなさそうな気がして、青年は現金にも肩をすくめてへらっと笑ってみせた。



「選べないな、どっちかなんて」



たった一分間の邂逅だったのに、あの死神の残像があまりにもあざやかに頭に染み付いてしまって、どうにも消えそうにない。

覚悟を決めたはずだったのに、自分は結局のところ現世(うつしよ)に未練を遺してきてしまったようだ。



──あの死神に恋をしてしまった。どうしても遂げたい思いが最期の最期に芽生えてしまった。

戻れるのならもう一度現世へ戻りたい、と青年は切に願う。雪のように真白の髪に触れ、彼岸花のように赤い透き通ったあの瞳にうつることが出来たなら。



願って目を閉じた瞬間、背後から微かに声が聞こえた。振り返った瞬間、何かきらりと光るものがすぐ目の前で振られたのを彼は目の当たりにした。

それは恐らくは死神の鎌の切っ先。振り切られた瞬間に溢れ出した三日月形の光の中から、声が今度ははっきりと耳に聞こえてきた。



「どこにも行かないで、こちらへ戻ってきてください─…」



声が消えるとほぼ同時に、三日月の中からかすかに透ける真白の手が彼のもとへ差し出された。

青年は信じられないものを見るような眼でその手を見、惚けたままに歩み寄って、その手を強く握り返した。

──初めて触れたその手はとても暖かかった。









ゆっくりと覚醒して青年は見馴れた天井を見上げる。焦点が定まると誰かの顔が横からひょいと現れ、真上から彼を覗き込んだ。

視線が合うと途端に安堵の表情を湛えて微笑んでみせた死神を、青年は眩しいものを見詰めるように瞳を細めて振り仰いだ。



「──僕は闇の中にいたんです。ふたつある出口の前で迷ってた。そうしたら、あなたの声がしました」

「だって呼んだんですもの。行って欲しくなかったから」

「なぜ?」



まだ握り締められたままの手を大切そうに見下ろして、死神は長い睫毛を伏せると、そっとささやくように言った。



「─…あなたに惚れてしまったからよ」



青年は一瞬驚きに目を見張り、それから病に伏せって以来ずっと紙のように白かった頬に、紅葉を散らしてはにかむように笑った。



「死にかけの男に惚れるなんて──あなたは随分と物好きな死神だ」

「あら、ひどい言い草。おかげであなたの魂がさまよってる間に、随分と飛び回る羽目になったのに」



柳眉をしならせて死神が不満げにごちると青年は苦笑いながらも素直に謝り、それから不意に真顔になって彼女を見上げた。



「死神さん」

「…その呼び方、なんとかならないのかしら」

「じゃあ、名を教えていただけますか?」


「え?─…魂子、ですけど」

「では、魂子さん。僕もあなたに伝えたいことがある。だからまだ死ぬわけにはいかなかったんです」



久方振りに自分の力でゆっくりと上半身を起こすと、彼は彼女の両肩にそっと手を置いた。

見開かれた透き通った紅玉色の瞳があまりにも澄んでいて、そのまま目を合わせていると吸い込まれてしまうかのような気さえした。



「─…あなたを好きになってしまいました。僕が今度こそ息絶えるその時まで、その…側にいてくれませんか」



うっすらと赤みがさした彼女の顔を見詰めているうちに、青年の声が段々と自信がなさげに小さくなっていった。



「……あなたに救ってもらった魂ですから、あなたを幸せにするために使わせてください」



死神がはにかむようにぎこちなく肩をすくめた。それから花の綻ぶように笑み、しっかりと頷いてみせた。










たった五十年の恋。彼の世と此の世の境界で、数多の死霊に寄り添いながら永きを歩む死神にとって、それを戯れと呼ぶのは容易いかもしれないけれど。



「戯れなどではないわ」



宵闇に差し込む幽き月光に映ゆる、安らかに睡る人の頬を掌で包み込んで、死神は誰にともなく呟いた。

いつかまた、この人の住まう水槽の中の水が枯れ果て底を尽きるとき。苦しみにあえぐ小水の魚を救うことはもう叶わない。

それでも。そんな日がいつかまたきっと来ると、分かってはいても。



「側にいさせて。どうか──その時まで」



たっぷりの水の中を游ぎ回る魚のように満ち足りた笑顔を浮かべ睡る、その人の寝顔が今ここにあることが何よりの幸福だった。









end.
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りんねのおじいさんとおばあさんの妄想話でした。
原作でもっとこの二人のエピソードが見れるといいなと思います。

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