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□厭離穢土
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馬の嘶(いなな)く声が夕闇に朧気に轟くと、りんは馬の焦げ茶色の毛を撫でる手をそのままにはたと振り返り、遥か彼方で昏れようとしている太陽から爛々と溢れる朱の光をその瞳にじりじりと焼き付けた。

あの日が沈めばきっと瞬きの間に、最果てより忍び寄る藍色の宵闇が全てを抱きこみ、そうして何の変哲もない一日にまた一区切りがつくのだろう。

沈みかけてもなお焼け付くような赤い光を全身に浴びて感じる入相(いりあい)の刻限にはどうしてか、まるで戦のさなかに返り血を浴びて独り途方に暮れた侍のような気分になる。

恐らくは馬小屋の仕事をこうして時折任されるようになった故だろう。いつの日か戦に駆り出されてゆくかもしれない馬達とこうして近く寄添ううちにいつの間にか、そういう感傷に浸るようになってしまった。



平和だったはずの此の巫女の村も、愈々(いよいよ)益々うねりを上げつつある戦国の戦禍の渦へと、抗うすべなく呑み込まれつつあった。

村の担い手であるはずの猛き若者たちがちらほらと戦に加勢するようになり、村のあちこちに頼りない女子供や老人が居残って留守を任される家々があがることも、稀ではなくなってきた。

村の一番巫女である楓は老齢故に祈祷を施すこと愚か薬草摘みに出掛けることすらも困難になり、今は一日の大半を床の上で過ごしている。

かの法師と退治屋の夫婦もまた、子らを村の者にあずけて村の外へ出張ることが多くなった。そしてまた、あの半妖と巫女の夫婦も。











「─…人の世は益々物騒になってきたな」



す、と音も無くりんの背後にたった人物がほつりと零した言葉が、あまりにも今し方まで思考を支配していたことと合致しているので、彼女は目を見張って振り返った。

ほんの僅かばかりの間考えに耽っていただけのつもりが、いつの間にか瞳を焼き付けた朱の光は跡形もなく消え去り、澄んだ表情で佇む妖の背後は一番星すらちらつき始めた宵闇に昏れていた。



「殺生丸様って、りんの心が読めるの?」



そう思うか、と殺生丸は一歩踏み出して静かに問い返す。りんは睫毛を伏せて、手に残る馬の毛並みの感触を握り締めるようにした。



「近頃は何処にいても人の血の匂いが鼻につく。合戦の跡を既に幾つ見たか知れない」

「……」

「りん」



呼ばれて顔を上げると、殺生丸の顔が彼女のほんの目と鼻の先にあった。鼻先のくっつきそうな距離から澄んだ金色の眼に滾滾と見詰められ、りんの呼吸が一拍子遅れる。



「今、何を考えている」

「……りんの心、読めるんじゃなかったっけ?」

「…是とは言わかなった」



そう言う彼が一瞬心なしか憮然とした口調になったのでりんは思わず頬を緩ませかけたが、注がれる巫女の破魔矢の如く真直な視線に、上がりかけた彼女の口角が徐々に降下していった。



「お前は何を思い詰めている。りん」



ゆっくりと伸ばされた殺生丸の手が一瞬、りんの頬にその掌を宛てがうかのように見えたが、触れる前にその手は固く拳を成すとどまった。



「…どうして」

「前にも言った筈だ。─…お前が私を選ぶその時まで、お前には指一本触れん」



そう言えばそんなこと言ってたっけ、とりんはほつりと呟いて名残惜しげに彼の身体の横に収まった拳を見下ろした。まだ返り血のような赤い光が身体中に飛び散ったままであるかのような思いがして、途方に暮れそうになる。



「─…私、この村が好き。楓様やかごめ様たちが好き。でも、戦は嫌い。戦に負けてしまいそうなこの村は、嫌い──」



りんは殺生丸の衣手の裾を震える手で握った。彼は変わらず澄んだ瞳で握られた裾に一瞬視線を落としてから、再び視線を彼女の黒の双眸へと戻し、ただじっと彼女の言葉に耳を傾ける。



「…ううん、違うの。嫌いなんかじゃない。ただね、りん、怖いんだと思う。─…もし何かがあって、珊瑚様があの子達を置いたまま、帰ってこなかったら?巫女のかごめ様が怪我をしてしまったら?この村は…どうなるの?この村にも怖いお侍さんたちが来たりしたら、りん、どうしたらいい…?」



もう、怖がることに疲れたの、とささやくように言うと、りんは涙の浮かぶ眼をゆっくりと閉じた。殺生丸の衣の裾を握る手に更に力が篭もり、今や自分の方へ引張るかのようになっている。



「…人間の世界が、私の居場所だと思ってた。殺生丸様のことが誰よりも好きなのに、まだどうしても、どっちかなんて選べなかったの。…でも、最近はここにいても、ずっと怖くて、悲しくて、うまく笑えなくて─…」



勝手すぎるよね、とりんは顔を覆う片手の指の間から搾り出すように言う。殺生丸はまた一歩歩み寄って彼女と距離を縮め、片手を彼女の前に差し出した。

りんは一度その手に視線を落とし、差し出されたその手の意味を問いたげに顔を上げる。殺生丸はその視線に応えるように引き結んでいた口を漸く開き、一言、



「──私を選べ、りん」



見開かれる漆黒の双眸を、金色の瞳が射るように据える。戦慄くりんの唇から言葉が溢れ出る前に、彼は更に言葉を接いだ。



「穢れきった人の世など、捨て置けばいい。─…お前が健やかにあれぬ世であるというのならば、私ももう待つことはしない」



──この手を取れば、もう後戻りはできない。大好きだった人々の笑顔も、心地好い温もりも、慣れ親しんだ在るべき時の流れも──本当に何もかも、ここに置いていかなければいけない。



「─…でも私、ここを捨てたら、もう何も残らないよ。それでも、私に殺生丸様を選べって言うの?」



ほとほとと見開かれた双眸から涙の粒を落として、りんが縋るように問う。それでも、と殺生丸は些か語気の強まった口調で言い差し、遂にはもう片方の手も彼女の前へと差し出した。



「例え全てを失っても、それでも──私がいる」



抑えきれなくなった嗚咽が溢れると同時に、りんの手が衣手の裾を離れ、彼の手を握った。只管に強く、強く握り締めた。指が絡み合い、間髪を置かずにより確固たる力で握り返される。

腕を引かれて抱き寄せられた広い胸元で、全てを捨てて引き換えに得たたった一つの居場所で、りんは声の嗄れるほどに泣きじゃくった。自分が悲しいのか、嬉しいのか、感情が綯交ぜになって判然としなかった。



「もう離さないで、殺生丸様─…ずっと、ずっと側にいて──!」

「──離さない。これからは、何処までもお前を連れていく。だから何処までも私と共にあれ、りん」



──もしも浄土というものが此の世に存在するのなら、それはきっとこの腕の中。神様など信じないし、もし仮にいたとしても、解けてしまった私の玉の緒を二度も結び直してくれたこの人には、きっと到底敵わない。











其の夜宵闇に紛れて、一人の娘が何の前触れもなく消え去った。妖に愛でられた娘は穢れきった人の世を捨て、唯一無二の浄土へと振り返ることなく旅立ち──そして二度と再び、人の世へ還ってくることはなかった。








end.
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「厭離穢土(えんりえど)」→仏教用語。

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