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□月の来訪
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それは決まって三日月の夜に訪れる。

閉じていた窓を開け放つと、淡色のカーテンを揺らす一陣の風と共にやって来る幽霊。──幽霊、と言うと途端にむつけた表情になってしまうから、そう呼ぶことは無いけれど。



「こんばんは。誰かさん」



言って振り返れば、其処に佇むその人が微かに眉を顰める。淡い銀色の長髪を背に流して、近付くその人の額には赤い三日月。

見るからに、人ではない。幽霊でもないと言う。じゃあ何、と聞いても教えてくれない。だから呼びようがない。



「そんな顔しないで。本当に思い出せないんだもん」

「……」



──一年前。いつものように学校から帰って来て、夕ご飯を食べて。宿題をしようと机に向かった矢先、開け放った窓から不自然に強い風が吹き込んできて。

そして──振り返ればその幽霊が、背後に居たのだから驚いた。心臓の縮まる思いで、盛大な悲鳴を上げようとした私の口を透ける手で塞いで、幽霊はただ一言。

──会いに来た、と。



幽霊に知り合いなんていない。口を覆う手を振り払って、情けなく震える声であなたは誰と問うと、幽霊は微かに眉を顰めた。もしかして、幽霊?と付け加えて聞くと、薄い唇から犬歯が覗いたので、思わずひっと悲鳴を呑み込んだ。



「私のことを知ってるの…?」



恐る恐る訊くと、幽霊は一瞬の沈黙ののちにゆっくりと首を縦に振った。そして囁く。──お前も私を知っている。



「でも私、あなたが誰か分からない」



はっきりと言うと、幽霊は表情を変えずに唇を噛んだ。澄んだ蜂蜜色の瞳がキラキラと光る。──思わず見惚れてしまうくらいに、綺麗な幽霊だった。



それ以来三日月の夜になると必ず、彼は開け放った窓の向こう側から、一陣の風と共にこの部屋を訪れる。けれど何を話すわけでもなく、聞いても何を答えてくれるわけでもなく。

彼は、勉強する私の背をただじっと見ているだけなのだ。退屈しないかと聞いても首を横に振るだけで。お菓子や飲み物を勧めても口に合わないと首を横に振る。

一体何の為に私に会いに来るのか皆目見当がつかない。振り返ればいつだって一瞬で目が合う。愛想笑いを浮かべても、にこりとも笑わない。ただ、蜂蜜色の瞳がキラリ、と光るような気がするだけで。

そのまま眠ってしまい、朝に目を覚ませばもう、彼は何処にもいない。ただ、いつもお決まりなのは、机でうつぶせ寝している筈の自分がいつも、ベッドの中で目を覚ますことだ。

開け放たれた窓から差し込む朝日をぼうっとベッドの中から見上げて、いつも思う。彼はなぜ、私を訪ねてくるのか。なぜ、何も語ってくれないのか。置き土産に残す優しさは。真っ直ぐの眼差しは。

──あなたは、誰。







「…ねえ」

「……」

「ねえ。なんか、薄れて来てない?」



私は目を凝らしてその姿を見据える。元々透けたような姿の彼が、今日はやけにおぼろげで危ういような気がした。彼は興味がなさげに目線を逸らす。



「もしかして、消えちゃうの?」



声が微かに震えた。彼は視線を合わせない。着物の裾を掴もうとすると、手がすうっと通り抜けた。何も掴めない。



「─…ねえ、今日こそは教えて。あなたは誰なの?もし本当に知ってるんだったら、私、あなたのことを思い出したい」



震える声でそのまま問う。彼はゆっくりと視線を合わせた。こんなにも間近でその眼を見たのは、始めてだったかもしれない。



「思い出さなくていい。何も」



たった一言。答えにならない答えを寄越して、彼は眼を閉じる。言葉少なだった彼は、それきり口を閉ざしてしまうかと思えば、予想に反してまた静かに語り出した。



「忘れたままでいい。じきに私のことも忘れるだろう」

「どういうこと…?」

「──会いに来るべきではなかった」



ぽつりと、一際静かな声で彼が言う。蜂蜜色の瞳がまた、キラリと何かを反射して煌いた。



「会うべきでないと分かっていた。きっと未練が残ると。それでも──」

「未練…?未練、って……」



言葉はそれ以上は続かなかった。──彼が透けてほとんど見えなくなってしまった腕で、私を抱き締めたから。

抱き締められる感触は無くて、代わりに冷気だけが寒々と体中に広がる。それでも私は、なぜか流れ出した涙が止まらず──触れられない背に、そっと手を伸ばした。



「行ってしまうの?」

「──ああ」

「ひとりで?寂しくない…?」

「お前も一度は辿った道だ。孤独など感じない」



瞳を細めたその柔らかな表情に、涙があふれて止まらない。氷のような面を持った人だと思っていたのに。



「笑った顔、始めて見た……」



泣き笑う私をじっと見下ろして、彼は私の前髪にふっと唇を落とした。何の感触も感じなかった。それなのに、心の何処かで誰かがその温もりを覚えていた。

──   様。大好き─。








朝、ベッドの中で目覚める。いつも通りの朝。

長い長い、見果てぬ夢の中にいたような気がした。開け放たれた窓の向こう側にひっそりと浮かぶ、有明の月を見上げて囁く。



「…また、会いに来てくれる……?」



頬を涙の玉が転げ落ちる。誰に向けた言葉か分からない。きっと、永遠に分からないままなのだろう。けれど不思議と絶望は無かった。

空に浮かぶぼんやりとした有明の三日月に、真っ白の雲が覆い被さる。今は会えないかもしれない。──それでも、いつかきっと。

世界が眠りに付いた頃、闇夜に現れる月のような。そんな人にきっとまた、何処かで会えるような気がする。







end.

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