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□花ぞ昔の香ににほひける
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ふわり、と荒涼な大地を吹き抜けた風に、白皙の妖は微かに切れ長の眦を細めて見せた。
その風の中に香る、確かな梅の香を手繰り寄せ、愛おしむかのように。


……梅の花は、遥か昔と変わらずに。
あの時のままの懐かしい香りで、咲き誇っている。
何処か遠い野山で咲いた春一番の梅の香であろうな、と妖は見当を付けた。
それはかつて、かの少女の愛でた花。
数多ある自然の名を態々心留め置くことなど決してない妖ではあったが、その花の名と香だけは違った。


「─…りん」


囁かれたその名とともに、梅の香は更に、匂い立つようにして吹き抜ける。
かの少女、もとい自らの伴侶であった人の子を、妖は思った。
春先の花の咲き誇るような笑顔で、いつも野を駆けまわるような忙しない娘であった。
長じて、やがて妖の子を成し、母になった後も変わらずに。
変わらないものが、あの日々には在った。
─…そして、今も。


「あれ?この辺りでいいのかなあ─…」


唐突に感じた、人の子の気配と香り。
妖は閉じていた瞳を開けて、ゆっくりと岩場から立ち上がった。
何も無い荒涼とした草原、その緑の果てから年のころは十ほどの少女が、辺りを見渡しながら駆けてくる。
妖はひとたび瞬きをした。
甘美な既視感を、覚えたのだ。
風鳴りを聞き、梅の香を捉えながら、ただそこで、その存在が近付いてくるのを待つ。


「なにもないみたいだけど……あっ!」


少女が立ち止まり、前方を見据えながら瞠目した。
視界の先、人ではない異形の存在が、佇みながら少女を真っ直ぐに見据えている。
白銀の、妖怪。
畏怖すら感じるほどに美しく、恐ろしい妖怪。


「あ、あの─…」


そろり、そろりと、忍び足で少女が近付いてくる。
張り詰めた緊張が妖にも伝わってきた。
ただ静かに、言葉を発することをせずに、妖は待ち続ける。


「あの、あなたが…あなたが、『犬神様』?」


「犬神様」
恐らくかつての妖だったならば、すげなく否定していただろう。
しかしその響きは、妖の心にすんなりと滲み込んだ。
そして長い睫毛を伏せ、妖は暫しの間、思考に囚われるかのようにじっと沈黙を守る。


伏せられた睫毛が再び上げられたとき、その琥珀色の瞳から発せられる視線は。
ただ静かに、しめやかに、不思議そうに見上げてくる少女へと注がれた。


「─…そうだ」


短く寄越された返答に、少女は漸く緊張が解けたように顔を綻ばせた。
その、花のほころぶような、笑顔は。
たっぷりとした、艶のある黒髪は。
高らかな声は。


「ご先祖様の遺言でね、ここに来たの。十になったら、その歳の春の初めに、ここにいる『犬神様』に会いに行きなさいって!」


─……りん。
妖の耳元で、かつての少女が、己の名を呼んだ声が聞こえたような気がした。





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